ページ

2019-06-01

枯れないために五十鈴川だよりは流れる。

6月に入った。午前中だけとはいえ、週に4日(雨の日はお休み)ほどアルバイトをしているせいか、毎週毎週があっという間に過ぎるし、土日のお休みがやはりことのほかうれしい。

毎日が日曜日という暮らし向きには、やはり私はまだ老いつつもいまだ若く、どこかに負荷がかかった生活というものが、私に合っているのだという気がする。

世の中に出てから、いろんなアルバイトや仕事をしてきたが、圧倒的に仕事に関する価値観が覆ったというか、いやというほど青春の終わりを足掛け3年富良野で過ごした経験がいま思えば、私を変えたのだと、いまはっきりとわかる。

どのような仕事であれ、与えられた仕事の中で何とか生活し、食って生きるのだといういわば覚悟のようなものが座ったように思う。肉体労働者の素晴らしさを私は富良野の畑に這いつくばる出面(でめん)のおばさんたちから学んだ。

以来、一番苦手とした肉体労働が、とんと苦にならないというか、苦にならないように肉体をうまく持続して使いこなす知恵のような感覚が生まれ、いまだ細くて筋肉も少ない初老の体であるが、十分に動ける身体を維持できている。有難いというしかない。
素晴らしい御本、佐藤優氏は真の知の肉体労働者・先生である。

わが老いらくの体をとの対話、まず動かしたらよく休むこと、次に栄養を良くとること、次によく学ぶこと(知的好奇心をなくさないこと)、そして私の場合旅をすることである。(他にもあるが割愛)

愛こそすべてならぬ、身体こそすべてと、初老の今実感する。少年老い易く学成り難し、というが、まさに然りであるけれども、でもまだやれることはたくさんあるのだ、そしてますますやりたいことが湧いてくるわが体がある。でなければ五十鈴川だよりは枯れた川になってしまう。

一日でもそうはならないようにするには、かくあるべきかと、わが体に問うしかないではないか。 同じような生活をしていてはどこかが倦んで、飽きが来る体質のわたしだが、飽きがこない打ち込めるものを持つことが一番肝心である。

そういう意味で、還暦を過ぎシェイクスピアのコトバを朗誦することを思い付き、始めたのは 好運であったというしかない。これは声を出せる間は飽きることがない、と断言できる。だが、生き物の摂理、年齢と共に筋肉も衰え声量も落ちる。

しからばと、またもや自分に問うのである。その時はその時腹をくくるのである。これまでの人生、やれるだけのことをやっていると、次の何かが待っていてくれる。(くれた)

だから、先のことは考えず、今はかろうじて声が出せているのだから、今の声を出すのである。このようなことはあまり書きたくはないのだが、内向きな同世代が多いように感じる、いまを楽しめない大人が。(もちろんお手本になる素敵に生きておられる先輩もいる)

私はアフリカをはじめとする異国の地で、貧しさの中でもカッコイイお年寄りを数多く見てきた。ものにあふれ囲まれ、精神的に貧しき人生より 、何も持たずに、だが肝心な事を見失わずにいられるような、ライフをこそ目指したい。

命さえもが、資本の論理の渦に飲み込まれてしまう、危険極まる時代の渦にはできる限り近づきたくはない、初老の私である。


0 件のコメント:

コメントを投稿