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2018-05-28

本橋成一氏と再会する日の、朝に思う。

外は曇り、今日は今日の何やらの空気感で、わが五十鈴川だよりは流れてゆく。まずは朝一番のルーティン的、声出し時間を終え、シャワーを浴びての、静かなブログタイムの訪れは、すっかり初老の体の精神調節機能の役割を果たしているかのようである。

脳トレなどという言葉が、こんなにもはやるかのようなご時世は、私は苦手である。リアの言葉に在るが、人間も自然には勝てぬのである。有限だからこそ、無限的なもの、普遍的なものに憧れる。

やがては元の木阿弥に 帰するからこそ、人生は素晴らしいのである、との側に私は立つ。死。果てしのないかなたから、お迎えがやってくるからこそ、今日をいつくしむ。

パスカルが書いていたことを誰かの本で読んで、深く同意しうなずいた。どこから来たかわからない自分という存在は、やがてどこにゆくかもわからないと。真の哲学者の言葉は限りなく素晴らしい。

もっと書けば、死があるからこそ生は輝くのである。小さきおのれの生を他者と比較したりなどせず(愚かである)この歳になるとただただありがたく、今日のわが命の有難さ、在り様をいつくしむのである。

歳のなせる業、このような以前だったら歯が浮くようなことを平気で書けるようになったのは、面の皮がただただ厚くなってきている証左だろう。

話は変わる。昨夜思いもかけぬかたからお電話をいただいた。声の主は本橋成一氏(写真家・映画監督)、明日岡山にゆくので夕飯でもという、ありがたきお誘いのお電話であった。
本橋成一市との出会いは【アレクセイと泉】

この歳になると、自然に在るがままに、首を垂れるように、過去にとらわれず、有限な未来時間をこそ大切にしたい。このような私に声をかけてくださるなんて。

本橋成一氏は飾らない、偉ぶらない、人間というか弱き立場に置かれた存在を限りなく暖かい目線で、フィルムに焼き付けてきた稀なお仕事を、今も継続されている畏敬する方である。

その方からのお誘い。ささやかな、私が取り組んできた仕事をきちんと見て、評価してくださる方がいる有難さ、ほとんどは忘れ去られるのが世の常であるのに、本橋成一氏は心のどこかに、私のことを記憶されていたのである。

ひさかたの再会、一期一会のひと時を、しっかり大切に記憶に刻みたい。



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