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2018-05-07

雨の夜明けの五十鈴川だより。

ほぼいつもの時間に目が覚め、外に出ると穏やかな雨が降っていたので、朝の散歩兼、リア王の外での素読はやめて、いきなり五十鈴川だよりで体と意識をゆったりと起動させる。

文章というものは、不思議である。今現在の体調が如実に顕れる。(そのような気がする)書きたいことが浮かばなくても、書いているうちに浮かんでくる。

書こうとさえ思えば、日々の暮らしを、(生きているのだから)雑記ろく的にとりとめなく綴ることは、可能だとは思うが、これくらいの気分屋的な五十鈴川だよりが、自分には似合っている気がする。

囲炉裏通信に別れを告げ、五十鈴川だよりを書くようになってずいぶんの時が流れたが、限りなく打ち間違い、誤字を繰り返し、満座に生き恥をさらしながらも、書くことを続けているのは、業というか、いわばいい意味でのトラウマだと、自分を慰撫している。

さて、生き恥、無知をさらしてのわが人生も、孫の誕生で一気に、自分でいうのも気が引けるが、より一層真面目にわが人生の過ぎし来し方を振り返り、いよいよもって、ますますこれからの(死と向かい合う)人生時間を生きねばとの思いが深まる、昨今である。

まさに人生とは、広義の意味で無知と、未知との遭遇であるとの認識が深まる。そんなさなかに、まさに出遭った出口治明氏の御本のことは昨日書いたが、いくつになっても、ささやかにではあれワクワク感がある間は、きっといくら細き流れになっても綴れるのではないかとの思いがしている。
信頼できる人から学ぶのは限りなく愉しく嬉しい。

 自分が自分らしくあるためには、変化し続けなければならないとの言葉が浮かぶ。何かにすがって持続していると、ある日突然、何か蒙が開かれるかのような感じで、新しい自分が育っているかのような気が、いまだする。

本質的な性格は変わらないものの、何かが緩やかに壊れ、これまでは思いもしなかったことに、忽然と 思いが及んだりする自分が現れる。

まさに自分とは何か、なぜ今ここに在るのか、という永遠の問いが、ふっと浮かぶ。この永遠の謎が、おこがましくもわたくしごときにも、かすかにいまだ宿っている(気がする)。

出口治明先生のような、真の意味での大きな知性に出遭うためにこそ、本を読み続け、ささやかに自分という不確かな存在の井戸を掘り続けることこそが、まさに生きていることの醍醐味といえるのかもしれない。

18歳から、生き恥さらして生きてきた私である。お恥ずかしくも今後もそればかりは治りそうもない予感がする今朝の私である。




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