今年は、初孫に恵まれた歳として、またいろんな意味で、私のこれまでの人生というか、生き方を勇気をもって見直し、今一度新たなる生き方を模索する歳として、内省的に生きることを、自分に課している。(ようなところがある)
この数年パセちゃん(義理の姉の愛称)のオープンガーデンにゆくことは、楽しみの一つになっていたのだが、私の中の中の何かが壊れ、変わったゆえなのかもしれないが、ひときわパセちゃんの、オープンガーデンの素晴らしさが沁みてきたのである。
中世夢が原で働いていたころから、パセちゃんがバラづくりガーデンに打ち込んでいることは 聞いてはいたが、ゆく余裕が持てなかった。ゆくようになったのは退職後である。
真ん中がパセちゃん、来られた方に説明している |
私の拙文で、パセちゃんのガーデンの素晴らしさを伝えるのは至難だが、企画者にその企画の個性が顕れるように、パセちゃんの庭には、余すところなく限られた狭い家の周りの敷地に、バラを含めた観葉植物ほか何百種類の植物群がまさに競うようにひしめき合って、今はやりの言葉でいうなら、ダイバーシティ、ピンからキリまでの多様性、大小色とりどりの花々、果肉植物が美しく、それぞれがそれぞれを引き立たせ、整然と存在していた。
薫風薫り、お天気にも恵まれ、光の花園、私はオープンガーデンで至福のコーヒータイムを過ごさせていただいた。あたかもあの世に浮かんでいるかのように。
バラから始まったパセちゃんの花の(近年は花以外の植物にも)ガーデンは15年近くなる。何事も10年以上真剣に取り組んだら、このように個性を打ち出さなくても、それは自然に眼前にこぼれるように現れてくるのであるということが、まさにまばゆい陽光のもとに如実に示されていた。
私は感動した、そして撃たれた 、そのあまりの一心不乱ぶりの見事さに。何としてもわが五十鈴川だよりに、この奇特な義理の姉のことを書いておかねばと、思うのだ。
独自に、一人黙々と、お金も体力も要るガーデンづくりに勤しむのは、ご本人にしか感知しえない、突き動かす何かがあるからだろう。お金があるからといってあのような庭はできない。愛情と情熱、知恵の結晶。限られた空間のあの土地に、パセちゃんの無限の想いを込めた何かが、花開いていたことの、素晴らしさを愛でさせてもらったものの一人として、書いておきたい。(もう私は芸術や文化とは限りなくおさらばし、静かな暮らしを愛す)
浮いたような、文書改ざん、偽善や、詐欺まがいの慈善(大学)事業、もう書くのも嫌になるくらい経済界、政界、官界、スポーツ界、あらゆる界に偽物が横行闊歩するご時世だが、パセちゃんの庭づくりには善悪が、創造と破壊が 敵対せず、美しく統一されていた。沈黙の美。
堕落した世相とは、まるで無関係に、ひたすらわが道を往く、義理の姉のゆく世界は私には、ただただカッコイイ。
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