妻はまだフルタイムで働いているので、今回初めて母の手を借りず、すべての工程を一人でやり、7・2リットルの梅酒をつけることができた。母をはじめ、何人かの方にも梅をおすそ分けすることができた。
大地の恵み・次兄に心から感謝する |
すでに書いたかもしれないが、我が家から運動公園まで往復で2キロくらいなのだが、この間歩きながらぶつぶつテキストを読む。公園では裸足になり、約一時間歩いたり立ち止まったりしながら、ときおり深呼吸しながら声を出し続ける。
ともかく、リア王はじめシェイクスピアの登場人物のセリフは、長いし、韻を踏んでいるので、その言葉を流ちょうに声を出すことは、何度も書いているが、息が浅くなっている初老の現代人である私には限りなく難しい。
正直、言葉の壁に弾き飛ばされて、遭難しそうになり、金魚のように息をパクパクする羽目になる、現在のおのれの姿が浮かび上がる中、もう丸5年も続けている。
なぜこのようなことをやっているのか?また 続けられているのかは、実は当人にもよくはわからない。ただちょっとだけわかっているのは、あの言葉の壁をよじ登りたいという自分がいまだいるという、それだけのことである。
あの膨大で、生き生きした言葉と格闘したいという、 体がいまだかろうじてあるということなのである。
今朝もなんとかやれたということが、ありがたいのである。ほかには何の意味もない。だが、5年も続けていると、唯我独尊、逍遥声出しの朝が、たまらなく贅沢ないっときに感じられる。
コンクリートの隙間に可憐な花(散歩の帰りに目に留まった) |
ただ一人、天のもとで裸足で声を出す、初老の男。はたで見ていたら、何をやっているのだと、いぶかしく思われるのは必定である。
その証拠に、いつも私と同じような時刻に散歩されている方から、何をされているのですかと声をかけられたのである。(長くなるので詳細は省く)
逍遥、精神の散歩、たまたま、シェイクスピアを声に出しながらの散歩に過ぎないだけである。超デジタル時代のさなか、中高年の巡礼とか、歩くということが、大はやりの感がある御時勢だが、私はただただ、手の届く範囲で、あたかも巡礼感覚の、声出し時間を過ごしているだけである。想像力でたゆたう無限の世界への散歩。
裸足、これが私の声出しの時の喜びである。地面の上に裸足で立つ快感、私の健康声出し時間はもう限られている。もう来年はできないかもしれないのである。
【宮本研】(ご存命の時に文学座のアトリエで言葉を交わしたことがある)という素晴らしい劇作家の作品に、【裸足の青春】という作品がある。安堵のこころもちでこの世から見えなくなるためには、今しばらく【裸足の老春】にあやかりたいと、凡夫は願うのである。
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