やく2時間半かけて9時半過ぎについた。すでに火が入り、天候に恵まれ、静かに穏やかにまるで時が止まったかのような感じで、猪風来式縄文野焼き祭りは始まっていた。
一人の芸術家が、40年前縄文の土器に衝撃を受け、以来縄文の土器作りに没頭してきた作品世界のすべてが、(廃校跡が)美術館となり、猪風来氏独自の縄文アート世界が展示されている。
氏との出会いは、おそらく氏が私の企画に足を運んでくださった数年前からだと記憶する。彼が私の企画に足を運んでくださったのは、私が土取利行さんを企画したからだと思う。
土取りさんは10年かけて、【縄文の音】という素晴らしい本を書かれている。結果的に土取りさんが私と猪風来氏を結びつけたということになる。
私のブログを開いた方々には、是非氏の足跡のすべてが展示されているこの美術館を訪ねてほしい。私がつたない言葉で、何かを語るよりも、まず作品の前に立ってほしいのだ。
縄文の世界については、まったく無知なるわたしだが、一万数千年の長きにわたって日本のの各地で営まれてきた、その豊穣なる精神性の高い生活様式はようやくにして近年とみに明らかにされてきている。
現代の大混迷時代を、芸術家の直感で縄文の世界に啓示をえた、猪風来氏の純粋たゆまぬ歩みの創造作品すべてを前にした私は、言葉なくただ作品世界の前で静かに対峙した。
我々にはもうすでに見えなくなりつつある、感じなくなるつつある、何か超越した波動が伝わってくる。その波動が1万年の時空を超えて、氏と縄文人とを深く結びつけているのだと思う。私もまた、かろうじてその波動を感じる感性をもっていたということが、素直にうれしかった。縄文人たちの声に、想像力で耳を澄ます。
私もまたどこか、この暴走現代文明の宿唖のような世界から、ゆっくりとどこかに身を隠したいと思う気持ちを心のどこかに持ち続けながら、この数10年を今も生き続けているといっても過言ではない。
縄文人の生と死を丸ごと包み込む、現代人が忘れ去った豊かな精神性に爪の垢でも学び、今を生きる心の糧としてあやかりたいと、思わずにはいられないのだ。
過去に還ることはかなわぬにもせよ、生きることへの寿ぎ、スパイラルな渦の生命力に満ち満ちた無名性の人々が創造した多岐にわたる土偶の数々は、今も我々の眼前に燦然と存在している。
一人の人間として、繰り返し縄文の土偶の前で、物思いにふけりながら、そのエッセンスを浴び今を生きる現代人病的垢を落としたいと思う。
(写真1枚目は、火を入れて3時間を過ぎたころ、2枚目は奥様の作品だと思う、確認しなかったが、素晴らしいというしかない、展示されていたタペストリー、写真を撮ってははいけないのだがどうしても、ついとってしまった。6月20日ころまで展示されているので、ぜひ足を運んでほしい)
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