思わぬ時間ができたので気分転換も兼ねて、昨日岡山の書店まで本を買いに行った。何度も書いているが、とても読み切れるものではないが、本屋のあの静かな空間が私は好きである。
あんなにも本を読まなかった幼少年時代を過ごした私が、本を手放せなくなったのは、ロンドンで一年近く過ごしてからである。以来本書物は、オーバーではなく、食べものの次に、お金を使ってきたくらいである。
私のわずかな、おこずかいの中からだから、大した金額ではないのだが、ちりも積もればなんとやらで、もうなるべくは買わないようにとは思うものの、お財布にいくばくか、自由になるお金があると、つい買ってしまう。
きっと、大学にもゆかず、高校時代も遊んでいた、つけというか、無知蒙昧なるトラウマが、わたしにはあって、そのことがいい意味で私を、本の世界にいざなわせているのだと、自分では思っている。
知的な教養に対する、永遠なるあこがれのようなものも、私にはある。読書人たる、資格も能力も私にはないが、働きながら、本を読むのが、やはり私には一番合っているように思う。
このような、私がわずかな自由な時間、最近といっても、この6、7年かなり読んでる作家の一人が佐藤優氏の本である。1960年生まれの氏の本の数々から、私は勝手にいろんなことを学ばせて頂いている。とても学びきれるものではないが。
勝手に、私の先生くらいに思っているくらいだ。その誠実な、博覧強記ぶりには、まったくもって驚かされ続けている。氏はキリスト者で、神の存在を信じていて、その信念の深さからなのだろう。収監されても、おたおたしない。
深く書く、時間の余裕はないが、本をわずかではあれ、読み続けることがなかったら、氏の本にも出会うことはなかったであろう。一冊の書物によって、頭の中に無数の光が差すような瞬間が確かにあるといった、経験を幸運なことに、私も何度かしている。
今に至るも、かろうじて自分自身に対する懐疑を持ち続けるのを、一日でも先延ばしにしたい、といった感覚は、多分読書を持続(読んだ本の多寡ではなく)してきたからだと、自分では感じている。
氏は、硬軟にわたって、たくさんの本を外務省を辞してから吹き出すように書かれている。たまりにたまった知性が爆発するかのように。自分で感動して自分の言葉で書かれているので、私にとっては難しい本も、それなりに読むことができる。
(私が好きな方たちの本は、すべて、中村哲先生の本もそうだが実体験、感動が根底にあって、自分の言葉で書いておられるので、胸に迫ってくるのである)
昔だったら、敬遠していたようなたぐいの本も、氏の推薦なら、なんとか手にして読んでみたいと思ってしまう。愚直に真実に迫る誠実さは、現代のメディアの中の、言論人の中で、はなはだ貴重な
方ではないかと、個人的に思う。
思想信条が異なる方々とも、色眼鏡なく忌憚なく、言論でやり取りする。その教養あふるる胆力は、半端ではない。氏の本は年齢に関係なく、謙虚に学ぶ姿勢の素晴らしさを、教えてくれる。
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