あらゆる体の部位が、やがては機能しなくなるというのが生の終焉だと思うが、そういう差し迫った身体には、いまだありがたいことに、程遠いほどに、私の体は、年齢的によく動いてくれているのではないかという、実感がある。ありがたいことだ。
ブログひとつ、身体【意識】が元気でないと、まずとても書けない。先のことは分からないが、書くという行為は私ごときの戯れ文であれ、なにがしかの集中力を要する。
集中力、持続力は、どうやったら継続可能か、そんなことをつらつら考えるだけでも、なにがしかの意識の刺激を生む。体や心に、わずかな時間水を注ぎ込むような感じで、ブログを継続したいものだなあ、という、あわい期待が自分の中に生まれてきた。
以前はなかったことなのだが、書く前にとにかく昨日なにを書いたのかを確認して、今日のブログを書くように私はなってきた。流れる水がよどまないように、可能なら一日でもささやかに流れ続けてゆくかのような、五十鈴川だよりであれば、とどこか願っている。
まあいわば、ささやかに儀式化しつつあるということだろうと自分では思っている。ナルシスティックではあれ、自己劇化であれ、自分の性に忠実に歩むひとときを、大切にしたいのだ。以前だったらすごく情熱を傾けたことに対して、最近とんと情熱が湧かなくなるつつあるのはどうしてなのか。
そのことに関する、自己分析は短い文章では無理なので置くとしても、情熱を向ける対象が大きくかわりつつあるという気はしている。以前も書いたが、歳を重ねるに従っていろんなことに関して、身体がゆっくりと動き、ゆっくり考える癖のような、いい意味での変化が私に訪れているのを感じる。
昔は、億劫だったこトが、何とはなしに愉しくなったりするのだから、ヒトという器は意識の持ちよう心懸けで、実にいい加減に変化するのである。まさにヒトは不確かな実在なのであるということを思い知る。
今日もまた起きて、とにかく身体動かし、意識を動かす。そしてどこかになにかを見つける意識を持つ。よしんばなにも見つからなくともよし。元気、根気、やる気、ちりも積もれば、犬も歩けば、私の座右の銘、そのことは、今も心の片隅に置いている。
仕事前のひととき小雨の中、庭に出てなにがしかのことを妻がなしている、眼と眼で朝の挨拶。犬のメルが妻の周りを飛び跳ねている。ブログ用の写真を撮りに庭に私も出た。(初めて植えたセロリです)
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