わずかな生徒さんとのひとときは、集中無心にレッスンをするので、やっているときは夢中のひととき、終えると身体に心地いいなんとも言えないさわやかな疲労感が襲う。長い一日を終え教室を出ると、春の闇がことのほかに気持ちいい。生きている実感がある。
無心に何事かをなす喜び感覚は、やはり若い時にこそ身につけなければ、30過ぎて身につけるのは、なかなかに例外はあるにせよ、難しいのではないかというのが、わたしの認識である。
歳とともにやがて身体の動きはいやでも鈍くなる。その真実からは遅かれ早かれ、何人も逃れることはかなわない。私はヒトと比較することが、苦手である。もっと書けばそんなことにはほとんど意味がないとさえ考える。自分に与えられた時間を生き切る、ということこそが人生というしかない。
時間とは何か、楽しい時は早く感じ、つらい時は長く感じる。つまり時を感じる、ヒトの感覚はいい加減なのである。8時間労働であれ、楽しければあっという間に過ぎる。時間とは私に言わせれば、限りなく実態が希薄な人間が拵えた概念のように思える。
年齢より若いとか、ヒトと比較しておのれを慰めたりとかして、ヒトという生き物は限りなき比較の連鎖で、おのれを安心させたりしがちな、存在というしかないが、そんなことのいちいちにかまけている時間は、私にはないというのが正直なところ。
人生は長短ではない。短い時間しか生きなくても、素晴らしい仕事を生した人はたくさんいる。長生きもさることながらやはり生きている日々の充実のプロセスこそが、肝要なことなのではないかと、私は考える。(だって先のことはだれにもわからないのだから)
その積み上げの中での長く生きたということであれば、それは幸せなことだとは思うが、単に長生きが良いとは、私自身は考えていない。
社会のお荷物になってまで、充実感無き日々を送るようには、なるだけならないように、いかように日々を生きたらいいのかを、還暦を境に一段と考え、日々を送るようになってきた私である。
そういう意味では、人生の先行きが見えてきたとまでは言わないが、以前より感じるようになってきた今、ありがたき楽しきことを見つける感覚は深まりつつある、いわば人生の秋のまっ盛りを、過ごしているように思える。
やがて、冬が訪れたときにおたおたしないために、ブログを書きながら厄介なおのれと、楽しく向かい合うしかない。
夜明け前から、こんなことを書くといささか不謹慎かもしれないが、自分というささやかなどこからか頂いた器を、可能なら使い切って、どこか広大無辺な宇宙空間の果たてに還りたいものだと思う。
(今日の写真は、昨年11月母と妻の3人でサンナンの畑に植えた玉ねぎ、後一月で収穫できます)
0 件のコメント:
コメントを投稿