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2014-04-02

夕暮れ、満開の桜の下を散策しながら思う。

食べ、寝て、起き、書き、働き、読み、声を出し、考え、ボーっと散歩し、とまあ、おおざっぱに書けば、このような暮らしを、9割がた、やっているかのような按配の、この一年の私である。

以前の私だったら、これに旅が加わるのだが、長旅はしばらくはできそうもない。9月には娘がドレスデンで結婚式を挙げるので、28年ぶりヨーロッパにゆくことになるが、これは気ままな旅とはいえないけれども、しばし、別世界を遊泳するという意味では旅である。

もし私に、真の意味で最後の余暇の時間が訪れ、健康で気力があれば、どこかノートでも持って、ぶらり出かけてみたいという、旅人願望は、止みそうもない。

でもまあ、そのような願望がよしんばかなわなくとも、それはそれで構わないという境地にまで、最近はなってきた。それほどに、いろんな意味で今が充実しているということが言えるのではないかと自分では思っている。

旅をしなくても、日々を旅のような感覚、というというと大げさだが、そのような感覚で過ごしたいという、願望のようなものが、私の中に生まれてきつつあるようにおもうのである。いろんなことを、分けて感じるのではなく、眠くなったら寝て、食べたくなったら食べ、書きたくなったら書き、とまあ、流れるように、あるがまま、気ままに、すべては必要最小限にとどめ、日々の時間の中で、為せることをなす、といった。

話は変わり、昨日仕事から帰って夕飯前、いわゆる黄昏時、母と妻とメルとで、吉井川の水源地に散策がてらお花見にいった。平日の夕暮れ、私たち以外には女性のカップルがいたくらいで、他には誰もいない。静かに見事な満開の桜が、誰もいない敷地に咲き乱れていた。妻はメルとの夕方の散歩を欠かさないので、少し遠出の散歩となった。

満開の桜の木の下を歩くだけで、なんとも言えない春の香りが満ちて、五感を優しく包んだ。我々は高低差がある敷地を数十分、散策した。その間母は座って大きな桜の木の下で、我々を待っていた。

夕暮れ時、満開の桜の木の下にたたずむ小さな母の姿が、私のまぶたに焼き付いた。思わぬお花見散歩となったが、わずかな時間ではあったがとても気持ちのいい、今年はじめてのお花見となった。
開き始めた我が家のかいどう桜

もし、私が母くらいの年齢まで生きるとしたら、母のようにゆったりと満開の桜の木の下に、溶け込んでゆくかのような静かな晩年が送れたらと、あやしき満開の桜の木の下で、私は思った。桜には、やはり私の心をざわつかせてしまう、魔力のような力がある。そーっとこのまま、夜の闇に乗じて消え入りたくなるかのような。

が今しばらくは、この浮世でじたばたと汗をかきながら、おのれに与えられている生をお迎えが来るまでは全うしつつ、生きている限り桜をめでたいと、思う黄昏散策となった。






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