畑のの近くで採れる蕨・神の恵み |
若いころは、典型的都会人で、夜型だったのだが、岡山にやってきてまったくの朝型人間になり、22年が過ぎた。歳とともに朝が大好きになりました。夜明けのコーヒ―がおいしいです。
このところ我ながら、よく書き続けていると、ささやかに感じる。いよいよもって日々確認ブログ、または、日々徒然、雑感ブログと化しつつあるような、気がします。書き始めたころからすると、やはりうすーく、うすーく、微妙な内面の変化が感じられるような気が、私にはしますが、はっきりとは分かりません。
ささやかに、読んでくださる方々の存在あればこそ、書き続けられているのです。妻が読んでくれているのも、やはり大きいです。何せ、出会うまでの、私自身の暮らしはまるで知らないのですから。
そういう意味では、夫婦というのは、まったく誤解とずれの感覚を、お互い持ち続けながら、ともに旅をするパートナーというしかない存在のように思えます。
まして子育てを終えたなら、これから先はどのようになってゆくのかも含め、また新たな展開が、在るのかないのか、誰にもわかりません。
ただ言えることは、いないとたいへんな空虚感にとらわれることは間違いないという気がします。かけがえのない存在ということだと思います。
まさか、朝からこんなことを書くとは、つい先ほどまで思わなかったのだから、未来は予測できない。きっといつの日にか、最終回のブログで、妻との出会いの不思議な一日のことは、きちんと書いておきたいとは、思います。
ですが、よしんばそれが書けなくても、それはそれでいい、といったいささか矛盾した感情も在ります。まして、人間の脳は、つらいことは避け、過去を美化し、楽しいことのみを思い出すといった、自浄作用のようなものがあるように思うからです。
ただ、出会う偶然を、必然的に感じてしまうように、勝手に脳が働くということは、生物の防御的本能だからいたしかたないとも思います。
気になるとか、心配だとか、愛するとか、居ても立っても居られないとか、ありとあらゆる意識の発露は、身体の中の一体どこから、生じてくるのか、まったくあやしくも、謎のままがやはり最近は素晴らしいと、私は思っています。スフィンクスの謎。
分からないということのなんたる素晴らしさ、だからこそヒトは、触れ、話し、日々を新しくやり直し続けることが可能なのでしょう。
4年半近く書き続けて思うことは、自分だけのはたを織るようにな感覚に最近はなるつつあるのではないかという気がしています。もっと書けば、いつかは終わるその日のために書き続けているのではないかという感じです。
なんか、お掃除感覚ブログになりつつあるような。ともあれ、陽が昇ってきます。今日は降水確率ゼロの予報です。畑が待っています。
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