ページ

2014-04-30

私を驚かす、妻の創意工夫力。

4月末日は何とはなしに妻のことが書きたくなった。妻は自分のことが書かれるのをことのほか嫌がるので、写真はもちろんほとんど書いていない。

なにか書くと、おのろけ的にとられるのを、私もあまり好まないので、つとめて妻のことを書くのは、今後も今しばらくはないと思う。しかし、もし私の体に異変が起きたりして、意識がはっきりしていたら、どうしても娘たちに伝えておきたいことを書くだろうとは思う。それはやはりブログではないかたちになるかと思うが、今は分からない。

そのこととは別に、セカンドステージに入り、お休みの日も共に過ごすことが多くなってきたりすることから、妻の新たなこれまで私があまり知らなかったような一面を間近に眼にすることが多くなってきたように思う。


妻も娘二人をほぼ育て上げた今、新たな自分の世界を再び築き始めているように感じるのだ。ガーデニングに対する彼女の情熱の注ぎ方は、やはりこれまで私が知っている妻とは明らかに異なる側面を、私に感じ始めさせている。

妻は私以上に質素倹約ができる生き方を、母の姿を見ながら育ってきている。持って生まれた性格、女性という性の違いもあるかもしれないが、あらゆる点で私とは対照的で、ほとんど家から出かけなくても、充足する世界を見つけようとしているかのように感じられる、最近の妻である。

娘が秋に嫁ぐので、そのこともあり、子育てを終えたとは言っても、他の大多数の庶民のように節約生活は続くのであるが、そのこととは別にして、彼女の時間の使い方を見ていると、工夫して何かを作るのが、ことのほか多くなってきたのだ。

昨日も使えなくなった傘を解体し、骨をさかさまにして植物のツルを這わせるようにしたのを(いつか写真にアップします)見てみてというので、見たのだが、その発想力には驚かされてしまった。

ちょっとした囲いなんかも、拾ってきたものや、不用品やあるもので工夫して作ってしまうのである。そのいわば工夫する力に、私は感動する。

先日、私が顔にかなりの紫外線を浴びて帰ってきたら、母が買ってくれた新しい麦わら帽子に頭の後ろ側が紫外線を浴びないように、白い布を取り付けてくれた。おそらく買えば売っているのだとは思うのだが、よほどのことがない限り、なんとか工夫する、そのことが嬉しいのだ。作ると子供のように、見てみてと私に迫る。

力仕事や、彼女が苦手なことは私がして、私が苦手なことは彼女がする。まったくの分担生活を互いに不可侵で行う生活。これが今のところお互い健康なのでうまくいっている。

彼女の工夫力が、私にもちょっぴり影響を与える。これまではあまりしなかったことスーパーでの買い物なんかも最近は意識的にするようになってきた。節約工夫する中でのやりくりを意識的に心懸けるように、以前にもましてするようになってきた自分がいる。

刺激し合える夫婦でありたい。たまたま同居している必然に歳を重ねるにつれ私は感謝している。

(きょうの写真は、妻が作ってくれた遊声塾発表会のチラシです)


2014-04-29

W・シェイクスピアがUさんと私を巡り合わせてくれました。

何やらやはり世の中はGWの気配、そんな中、昨日午前中は、カルチャープラザでのレッスンがいつも通り行われた。Uさんとの二人だけのレッスンである。

ケアハウスから、本当に熱心に私から見たら高齢なのに、水島から電車を乗り継いでこられている。10時から2時間のレッスンなのだが、早い時には15分前位にはきちんと着席されてまっておられる。

年齢のことを書くのは、失礼なのだが83歳、おそらく今年中には一つお年を召されるかの知れない。以前も書いたが、今のところたった一人ではあれ、この方とのレッスンを楽しみにしている。

この方とのレッスンは、水曜日の遊声塾とは異なって、ただ二人で今のところ、シェイクスピアの作品を声に出して読んでゆくということにしている。間違いの喜劇・ロミオとジュリエット・冬物語とすでに読み終わり、昨日からハムレットに入った。

Uさんがお元気に来られる間はとにかく作品を一本でも多く読むつもりでいものところいる。私もそうだが、人間という器は、何か打ち込む世界があった方が楽しいのは言うまでもない。

私はUさんからかなり刺激を受ける。だから、レッスンが楽しみなのである。なにしろ私がこれまで出会った女性の中では、最もといっていくらい芸術的世界にとまらず、知的教養が高いのでいろんな話ができて、雑談してるとあっという間に時間が過ぎる。

この御年齢まで、一人芸術を友として生きてこられたかのようなか彼女の人生は、そこはかとなく、何か毅然としていて、どこか、さわやかなのである。

そしていまだ、私のレッスンに通ってくるくらい、知的好奇心が高い。本もよく読まれる。後は御健康だけである。だから私は、この方には決して大きな声は出させないようなかたちで、声を出していただいている。

小さな声の輝きのような日本語の世界を、私はUさんの声に感じている。今の若い方々の発する声とは、明らかにUさんの発する声の質は異なって私には聞こえる。その彼女の発する声の質感を大切にしたい、そのことしか私は考えていない。

あの年齢の小さな体でとにかく30分以上、続けてハムレットを読み続けるのはかなりの意識の持続力がいるのだが、Uさんにはいまだその力があるので、私はレッスンを続けている。

何よりわたしに、ハムレットって素晴らしいですねと、作品を語るその姿は、童女のようである。若き日にあの時代何よりも、オリビエのオセロを、じかにロンドンで観ている方なのである。その方が映画では何度も見ていましたが、あらためて読んでみて、ハムレットを素晴らしいとおっしゃるのである。粋なヒトというしかない。

人間とは限りなく声を出す器、そのことの素晴らしさを、Wシェイクスピアは熟知していたに違いない。今年は生誕450年に当たる。彼女がロンドンでオリビエのオセロを観たのは、50年前の400年祭でのことである。

つまり、彼女が33歳、若い時にやはり何でも果敢に悔いなく生きておくことが大切ではないかと、思い知る。その彼女が私のレッスンに通っての巡り合い。

シェイクスピアが、きっと私と彼女を出逢わせてくれたのだと、思う。


2014-04-28

新見、法曽にある、猪風来美術館を妻と母と3人で訪ねました。

数年前一度だけ訪ねたことがある、新見の法曽に在る、猪風来美術館で行われた、第18回春の縄文野焼き祭りに、妻と母と三人で行ってきた。

やく2時間半かけて9時半過ぎについた。すでに火が入り、天候に恵まれ、静かに穏やかにまるで時が止まったかのような感じで、猪風来式縄文野焼き祭りは始まっていた。

一人の芸術家が、40年前縄文の土器に衝撃を受け、以来縄文の土器作りに没頭してきた作品世界のすべてが、(廃校跡が)美術館となり、猪風来氏独自の縄文アート世界が展示されている。

氏との出会いは、おそらく氏が私の企画に足を運んでくださった数年前からだと記憶する。彼が私の企画に足を運んでくださったのは、私が土取利行さんを企画したからだと思う。

土取りさんは10年かけて、【縄文の音】という素晴らしい本を書かれている。結果的に土取りさんが私と猪風来氏を結びつけたということになる。

私のブログを開いた方々には、是非氏の足跡のすべてが展示されているこの美術館を訪ねてほしい。私がつたない言葉で、何かを語るよりも、まず作品の前に立ってほしいのだ。

縄文の世界については、まったく無知なるわたしだが、一万数千年の長きにわたって日本のの各地で営まれてきた、その豊穣なる精神性の高い生活様式はようやくにして近年とみに明らかにされてきている。

現代の大混迷時代を、芸術家の直感で縄文の世界に啓示をえた、猪風来氏の純粋たゆまぬ歩みの創造作品すべてを前にした私は、言葉なくただ作品世界の前で静かに対峙した。

我々にはもうすでに見えなくなりつつある、感じなくなるつつある、何か超越した波動が伝わってくる。その波動が1万年の時空を超えて、氏と縄文人とを深く結びつけているのだと思う。私もまた、かろうじてその波動を感じる感性をもっていたということが、素直にうれしかった。縄文人たちの声に、想像力で耳を澄ます。

私もまたどこか、この暴走現代文明の宿唖のような世界から、ゆっくりとどこかに身を隠したいと思う気持ちを心のどこかに持ち続けながら、この数10年を今も生き続けているといっても過言ではない。

縄文人の生と死を丸ごと包み込む、現代人が忘れ去った豊かな精神性に爪の垢でも学び、今を生きる心の糧としてあやかりたいと、思わずにはいられないのだ。

過去に還ることはかなわぬにもせよ、生きることへの寿ぎ、スパイラルな渦の生命力に満ち満ちた無名性の人々が創造した多岐にわたる土偶の数々は、今も我々の眼前に燦然と存在している。

一人の人間として、繰り返し縄文の土偶の前で、物思いにふけりながら、そのエッセンスを浴び今を生きる現代人病的垢を落としたいと思う。

(写真1枚目は、火を入れて3時間を過ぎたころ、2枚目は奥様の作品だと思う、確認しなかったが、素晴らしいというしかない、展示されていたタペストリー、写真を撮ってははいけないのだがどうしても、ついとってしまった。6月20日ころまで展示されているので、ぜひ足を運んでほしい)


2014-04-27

肉体労働の後のささやかな読書タイムは欠かせません。

昨日のブログを読んでから、おもむろにきょうのぶろぐを書き始める。昨日今年一番の暑さの中、午前と午後、2時間半近く草刈りをした。こんなに草を刈ったのは開墾以来である。

現在の自分の体力測定の意味も兼ねて、私は草を刈った。平面を刈るのはさほどのことはないのだが、斜面を刈るのはなかなかに骨がおれる。だがありがたいことに、20年以上夢が原で草刈りをしてきたことが、こんなにもサンナンの畑で役に立つとは思いもしなかった。

企画することもそうだが、最低10年はやらないと、何事も身には付かないそんな気がします。話を戻しますが、草刈りを終え家に帰ると、さすがにぐったりと疲労している自分の身体がありました。

そんな私を、昨日からGWでお休みに入っている妻がいたわってくれ、着変えてすぐ、ささやかに少し早目のビールタイムをまだ陽が高い庭で持ちました。なんとも心地いい時間帯の労働の後の春のビールは格別です。

朝が早い私は、わずかなビールで、すっかり気持ちよくなってしまいました。どこに出かけなくても、我が家でささやかに静かに、疲れが癒せ、一晩ぐっすり休めば又こうやって、ブログを書ける暮らしに、単細胞的に私は自足します。

身内以外、可能な限り迷惑をかけず(若いころからいろんな方に迷惑をかけてきた反省があります)一日を充足して過ごしながら、静かに下ってゆきたいという思いなのです。こんなことを書くと、何やらわびしげですが、それもまたよろしからずや、といった心境。

今これを書いているパソコンの机の隣には、読みたい本がざっと10数冊置いてあります。それらの本を夕飯前、手にしている時間はしばし至福の時間です。きっと働いているからこそ、そのわずかな時間集中して本が読めるのだと思います。

この数十年の間で、この一年間が最も本を手にしていると思います。30分でも、一時間でも集中して本を読んでいると、何やらと脳の中が心地よくなってきます。そのことが自分で分かっているので、つまり楽しいのです。

素敵に生きて、歳を重ねておられる方の本なんかに巡り合うと、何やらほのぼのな幸せ感にひたれます。元気が湧いてくるのが分かるのです。本や、音楽や、つまり私にとっての芸術や、娯楽や芸能は、精神を日々浄化してくれる、又とない特効薬なのです。

お風呂に入って、日々の疲れをとり、明日の英気を養うように、私の生活には欠かせません。一人自分と向き合う時間が、絶対的に必要です。読書は間接的にあこがれの著者とお話しているかのような、錯覚時間を楽しめるのが、なんともはやだいご味というしかありません。

先日上京した際、神田の古本屋で、二日ほど本やめぐりをしたのですが、きっとこれから上京するたびに、神田の古本屋界隈を私は元気な間徘徊するような気がします。そのために上京したいと思うくらい、私は神田が好きです。

畑の肉体労働、プラス読書とブログが日常生活の基本です。汗をかかないと、私にとっての読書はあまり意味を生しません。あくまで生きて食うために必要な読書なのです。


2014-04-26

心から食べ物を大切に頂くということを基本に暮す。

人間は記憶の生き物であるとつくずく思う。定年でひと仕事を終え、今また農の仕事をしながら思うのは、これまでの人生での中で、あらゆる意味で、もっとも余裕のある季節を迎えているからなのか、あるいはまた単に歳を重ねたということなのかもしれないが、過去のいろんな出来事が思い浮かぶ。

様々な出来事や、あらゆる苦楽を、いい意味で振り返り、思い浮かべることができるということは、幸せなことではないかという気が、私はする。前進するための振り返り。

ヒトは膨大な経験をしているはずであるが、そのことごとのほとんどは、ありがたいことに、忘却の彼方に置き去りにされ、都合のいいことや、どうしても忘れられない、思いだしたくもないようなつらい経験も、しっかりと心の片隅に残っていても、脳は都合の悪いことはなかなか思いださない。

私にしてもそうである。戦前戦中のつらい記憶なんかを、胸にしまわれたまま多くの方が、他界してゆくのは、おそらくそういうことが、言えるのではないかと、個人的に思う。

我が国の歴史始まって以来という、物質的に豊かな時代の大部分を庶民としても享受し、個人的に私が思うのは、こうやってのーてんきにブログが書けるということひとつとっても、真にもって幸運、幸福な時代に生まれてきたのだということを、過去のたいへんな時代にしか生きられなかった人たちのことを知るにつけ、私は天を仰いで感謝する。

だからこそ、いつ何時どのような時代がやってくるのかは、まったく予期できないのであるから、いくらのーてんき、であるとはいえども、おたおたうろうろを、最小限に食い止めるための生き方を、普段から心の片隅に置いておかないと、たいへんなことになるのではないかと危惧する。

来年は戦後70年の節目ということだが、落ち着いた暮らしをようやくにして手に入れて、私ごときの頭で、戦前戦中戦後の食い物がない時代の庶民の困窮の時代の新聞記事なんかをじっくりと読むと、生き物として、ヒトを狂わす飢餓の経験はけっしてしたくはないと思うはずだ。

その日の食べ物がある、ということへの心からの感謝の念さえあれば、ヒトはそうは道を踏みはずすような人生は送らないのではないかという気が私はする。そういう意味で、最初に出会う大人のしつけ、愛情、人肌のぬくもり、つまり親が、子供に与える影響の大きさは量り知れない。

セルバンテスは言っている、最大の調味料は空腹だと。経済を回すというシステムのために、大量のまだ食べられるものが、廃棄されるという現実には、どうしても私は同調できない。使い切る、無駄にせず、大切に食べきる。命の循環が大切にされる社会にこそ私は住みたい。

原発、電気垂れ流し無責任社会なんか、まっぴらごめんである。自動販売機がなく、コンビニがなく、夜が少々暗くなったって、私はかまわない。いったいぜんたい、誰がこんなにも不安を抱えた社会を作ろうとしているのか、老人というにはまだ早き私は、いまだ血が上る。

人間も契約、売り買いするような時代のおぞましさ、はるかに縄文時代の方が健全ではないか。あらゆる人間意識分断社会は、川の流れには程遠い。

ゆき過ぎたハイテク文明生活さようなら、こんにちは地に足のついた、命の見える生活。

衣食住、あらゆることに感謝の念を思いいたる生活を心懸ける。そうするといろんな循環がうまくゆくようになるのではないかと考え、私自身実践につとめている。そうすると無駄がなくなり、生活がシンプルになり、余裕が生まれてきたように思うのだ。

もうあとひと月もすれば、初めて植えた玉ねぎを収穫することになるのだが、消費する生活から、何でもいいから、作りだす生活へのパラダイムシフトを自分から始めようと思う。その折々もまた、ブログで書きつづる暮らし。流れ流れよどまない五十鈴川だより、でありたい。

こないだ畑で働いていたら、ズボンのお尻が破れた。母につくろってもらうことにし洗濯して母に頼んだら、母曰く、手が動く限りつくろってあげるから持っておいでと言ってくれた。かくありたい、このような年寄りになりたい。


つくずく私は最近反省する。身体と意識がはっきりしている間は、限界を設けず働きたいという気になってきた。動けるということが、ヒトとして最も重要なことなのだということが、沁みてきたのである。


2014-04-25

お百姓仕事は、限りなく脳を活性化させる。

開墾から始めた畑にこんなにも早くネギが植えられてゆくようになるとは、素人丸出しの私にはまるで予想ができなかったが、ようやく少しは葱畑らしくなりつつある。

何せわずかな人間で動いているのでなかなかはかどらないのが農業仕事だとつくずくおもう。定植機で植えてゆくのだが、植えた後の補植に結構手間がかかるのである。

それと、なんといっても雑草対策、ネギよりもずっと成長が早いので畝の中や、間に生えた草を抜いたり、鍬で表面を削ってゆくのだが、これが根気がいるのである。

だが、やはり若いうちに根気を養う経験をしておくと、そのことを楽しむとまではいかなくとも、苦が楽になるような方法を身体の方が教えてくれるのである。A専務がのんびりやってくださいという言葉にも救われるが、以前も書いたと思うが、私はひたすら鍬の使い方がうまくなりたいと思っているのである。

もっともっと歳を重ねた歳月に、庭で可能な限り菜園生活をしたいと思う私にとって、鍬を上手に使えるということは、必須なのである。母が鍬を使うのを見ていると、まったく身体に無駄な力が入っていない。

声を出すこともそうだし、あらゆることに通底するかと思うのだが。なにごとも集中無心にやっていると、何かが見つかる。そのことを身体が知っているので、先に進んでゆけるし、8列の葱が100m近く完了すると、やったあという充実感に救われるのである。

相棒のN氏も同様のように動いている、と感じる。相棒との息が合っていないと、定植機は二人で動かすのでなかなかに、はかゆかない。ああしよう、こうしいようと二人で大まかな一日の作業の流れを確認するのだが、ほとんど我々の考えは一致する。

サンナンで働いていて楽しいのは、又とない相棒に恵まれたからだと思う。今日もこれから畑でN氏との時間を過ごすのであるが、畑に立ったら、もうだいたいあうんの呼吸で事が進んでゆくのだ。

だから仕事がことのほか楽しい。雨が降ると、朝一番確認の電話や、夕方明日の段取りなんかが留守電に入っているという按配だ。

氏は愛妻家である。畑で臆面もなく奥さんのことをのろける。週末はデートだなどと、歳を忘れて青年のようにのたまう。無類の魚釣り師でもあるが、潮が悪いときはゆけない。そんな時は奥さんとのデートである。

話がそれたが、早いとか遅いとかではなく、仕事に関してきちんと向かい合っているかいないかの問題なのだ。貴重な開墾仲間でもある相棒との仕事はことのほか楽しい。

セカンドステージに入った我々の世代にとって、お百姓仕事はいやでも応でも身体を動かさないといけないので、ボケてなどいられないのだ。養老先生が言っているが、農の仕事は脳を、つまり身体を使うということなのである。

養生という言葉があるが、農の仕事はまさにこの言葉に極まる、と思える。(今日の写真は母に頂いた、フリージアです)

2014-04-24

やがて、冬が訪れてきたときの心の準備を深めてゆくためにブログを書く。

ハードではあるが、きわめて充実の昨日を終え、ばったんきゅうで床につき、なんとか眼が覚めたので思いきって起きて、朝湯を浴びた。水曜日の遊声塾を終えると、何とはなしに少しほっとする。

わずかな生徒さんとのひとときは、集中無心にレッスンをするので、やっているときは夢中のひととき、終えると身体に心地いいなんとも言えないさわやかな疲労感が襲う。長い一日を終え教室を出ると、春の闇がことのほかに気持ちいい。生きている実感がある。

無心に何事かをなす喜び感覚は、やはり若い時にこそ身につけなければ、30過ぎて身につけるのは、なかなかに例外はあるにせよ、難しいのではないかというのが、わたしの認識である。

歳とともにやがて身体の動きはいやでも鈍くなる。その真実からは遅かれ早かれ、何人も逃れることはかなわない。私はヒトと比較することが、苦手である。もっと書けばそんなことにはほとんど意味がないとさえ考える。自分に与えられた時間を生き切る、ということこそが人生というしかない。

時間とは何か、楽しい時は早く感じ、つらい時は長く感じる。つまり時を感じる、ヒトの感覚はいい加減なのである。8時間労働であれ、楽しければあっという間に過ぎる。時間とは私に言わせれば、限りなく実態が希薄な人間が拵えた概念のように思える。

年齢より若いとか、ヒトと比較しておのれを慰めたりとかして、ヒトという生き物は限りなき比較の連鎖で、おのれを安心させたりしがちな、存在というしかないが、そんなことのいちいちにかまけている時間は、私にはないというのが正直なところ。

人生は長短ではない。短い時間しか生きなくても、素晴らしい仕事を生した人はたくさんいる。長生きもさることながらやはり生きている日々の充実のプロセスこそが、肝要なことなのではないかと、私は考える。(だって先のことはだれにもわからないのだから)

その積み上げの中での長く生きたということであれば、それは幸せなことだとは思うが、単に長生きが良いとは、私自身は考えていない。

社会のお荷物になってまで、充実感無き日々を送るようには、なるだけならないように、いかように日々を生きたらいいのかを、還暦を境に一段と考え、日々を送るようになってきた私である。

そういう意味では、人生の先行きが見えてきたとまでは言わないが、以前より感じるようになってきた今、ありがたき楽しきことを見つける感覚は深まりつつある、いわば人生の秋のまっ盛りを、過ごしているように思える。

やがて、冬が訪れたときにおたおたしないために、ブログを書きながら厄介なおのれと、楽しく向かい合うしかない。

夜明け前から、こんなことを書くといささか不謹慎かもしれないが、自分というささやかなどこからか頂いた器を、可能なら使い切って、どこか広大無辺な宇宙空間の果たてに還りたいものだと思う。

(今日の写真は、昨年11月母と妻の3人でサンナンの畑に植えた玉ねぎ、後一月で収穫できます)
 

2014-04-23

GW、家族全員での7年ぶりでの帰郷の旅が近づいてきました。

時折、岡山不在の時まではさすがにブログを書こうとは思わないが、岡山にいるとき、とくに一日が始まるまえ、自分に元気を吹き込むように、何やらつづりたくなる、のが何か当たり前になるつつあるような最近の私だ。

全く書くことを決めていない、起きた時勝負みたいな我流即興ブログと化しつつある。ところでこの間、軽井沢経由東京への旅を終えたばかりなのだが、またもやGWが近づきつつある。

今年は家族全員での、宮崎(門川)への旅となる。娘が秋に結婚式を挙げるので、両親のお墓参りを兼ねて、その御報告にゆくたびとなる。全員での帰郷は7年ぶりである。新たな家族となる、レイ君はもちろんはじめての旅だし、姉はこないだ東京駅でほんの少しレイ君にあったが、兄たちははじめて、レイ君を紹介する旅でもある。

五十鈴川。私が小学生の夏、プールなき時代、何度も何度も、真夏の炎天下往復4キロ、歩いて通い、泳ぎを見よう見まねで、覚えた川の名前。(我が故郷は大小の川が素晴らしいのだ、それと山と海)

自力で何かをなすことを、教えてくれた川が、五十鈴川である。この川の源流の宇納間(うなま)というところが、日高家の先祖がすんでいたところだ。

だから、娘のフィアンセには、この地をなんとしても私は踏んでもらいたいのである。つまり、今回のGWの旅は、娘の伴侶に我が故郷を紹介するもうなかなか全員でゆくことは、かなり難しい貴重な旅になる予定なのである。

遠いので、現地には丸3日しかいられないが、幸い兄や姉たちが元気だし、帰って来いと温かくいってくれるので、私としてはお言葉に甘えて、御厄介になるつもりだし、姉や兄が結婚式にドイツまではゆくことは難しいので、ささやかに夕食会でもしたいと考えている。

ともあれ、レイ君と娘から、結婚したいとの報告を受けたのが、昨年のお正月だから、何やらの急展開に、私自身身体の意識がついて言っていないというのが正直なところだ。

がしかし、それが人生なのだ。予期しないことが次から次に起きてゆく。私と妻との出会いだって、まったく予期しないことから始まって今に至るのだから、まさにこの世は意外性の連続の未知との遭遇の旅というしかない。

こんな個人的な朝ブログのあれやこれや、を開いて読んでくれる人がいるのかしらん、と思うのだが、いたしかたない、今朝はこんな感じだ。

それにしても、私の故郷に対する思いは歳とともに美化され、深まる。この半世紀で、人心も原風景の町並みもまったくと言っていいほどに、記憶の姿を変えてしまったけれど、ありがたいことに、自然はいまだあまり開発されず、かなり記憶のままに残っていて、そのことがとてつもなく私には嬉しいことなのである。

だからこそ、私はいまだに我が故郷に、そっと足を人知れずとも運びたくなるのである。在来線で時間をかけてまで、帰郷する私の故郷への思いは、きっと死ぬまで変わらないだろう。そこに五十鈴川が流れている限り。

五十鈴川のほとりにたたずむだけでも私は満足である。きっとレイ君にも、ドレスデンのどこかに記憶の原風景があるはずである。よしんばそれが都会であれ、ヒトという生き物は、記憶の原風景を持つ。9月ドレスデンで式を挙げるのだが、彼の故郷をこの目でしっかりとやきつけてきたいと今想っている。

娘が選んだ相手がドイツの男性であることから、新しい世界がまたもや動き始める。今に始まったことではない、人間は愛と幻想の生き物だというしかない。そのことを私は心から肯定的に受け止め、一人のささやかな親として、見守り続けてゆく覚悟である。

(今日の写真は御近所から頂いた、筍と我が家の初収穫のサヤエンドウです)

2014-04-22

安野光雅画伯の【会えてよかった】という本を読みました。

火曜日の朝はごみ出しの日である。先ほど深呼吸しながらシーンといまだ静まり返っている住宅街を歩いて行ってきたのだが、空には半月が煌々といまだ又たいていた。春の夜明け前のおぼろ月。いまだ風情などというものに何やら感じ入ってしまう、日本人の私の心。

これから夜が明けてくるまでは、なんとも形容しがたいほどの、詩的(私的)充実が私の中に生じる時間帯である。おそらくこの感覚が、私にブログを書き続けさせているのかもしれないという気さする。まさに陽があまねく万物を照らし始める直前の、言葉にならない、感覚。

さて、安野光雅さんという画家がおられます。1926年のお生まれですから、もうかなりのご年齢です。この方がこれまでの人生で出会った素敵な方々50名の思い出を綴ったエッセイ、【会えてよかった】という本をゆっくり読み終えました。
御自身の装丁

画家ですから、絵が素晴らしいのはもちろんですが、文は人なりをまさに知らしめてあまりある本で、安野文体というしかない文章は、読んでいて滋味あふるる感性が随所に光っていて、、著者がいかに、出会えた方との交友を大事になさっていたのかが伝わってきて、、静かに本を閉じた。

高峰秀子さんをはじめ、そのうち32人の方は、本を読んでいたり、テレビで見たことがある、つまり身近に感じられる、いわゆる私の好きな方々だったので、なおさら安野さんの本を愉しく読むことができました。面白い、エピソードが満載、知られざる素顔が、安野さんのタッチで描かれてゆくので、その面白さは、実際に本を手にして読んでいただくほかはありません。

それにしても、年齢を超越したかのようなユーモアあふれる感性と、しなやかな文章には何度も驚かされました。また画家の記憶力にも瞠目しました。まさに人生は、出会った方々との交友によって、鮮やかに彩られてゆくのだということが分かります。

限られた人生の時間で、こんなにも素敵な人たちと、交友があった(かなりの方々が、すでにこの世にはいない)安野画伯はなんとも豊かな人生を、そして今も歩まれている、と感じ入った。いまだ若輩の私だが、きっともっと時間が過ぎ人生を振り返った時、思いだすのは出会った印象に残る、人たちのことではないかという気がやはりするのである。

有名無名ではなく、その方たちのことを安野画伯のような文章では書けなくとも、私も何か書くことができれば、何か夢のように楽しいではないかと、想う。振り返れば、まさかこんなにも自分がつたなくとも文章をつづることを、苦しくともまた楽しといった塩梅で、書くようになるとは、私自身思いもしなかったのだから。

25歳の時、息も絶え絶え、ロンドンに流れ着き、私は生まれて初めて日記なるものを書いたのだが、(その時の日記が手元に残っている)とても他人様に見せられたものではない。恥ずかしきことこの上ない、誤字脱字、無知蒙昧丸出しの日記なのである。

だがしかし、それが私なのである。でもまあ、きっと何かに導かれてロンドンに流れ着き、今また畑に流れ着いているのもまた、何かのお導きなのだと、自分勝手に良き方へと考えている。あの時つたなくとも、一日も休まず【ロンドン日記】を書き続けたことが、私が人生で初めてつかんだ自信なのだから。

ヒトはどんなに他者から影響を受けようとも、自分という器を運ぶ存在でしかあり得ないのだが、今も私は、素晴らしい他者との巡り合いを、どこかで望んでいる。それが一番贅沢なことではないかという気がする。

2014-04-21

4月21日、春の小雨の朝に思う。

最近、うまく書けないのだが、ちょっとした変化が、肉体におこっているのを感じている。これは年齢的なものなのだろうと思うし、自分の体のことなので、自分にしか分からない。

あらゆる体の部位が、やがては機能しなくなるというのが生の終焉だと思うが、そういう差し迫った身体には、いまだありがたいことに、程遠いほどに、私の体は、年齢的によく動いてくれているのではないかという、実感がある。ありがたいことだ。

ブログひとつ、身体【意識】が元気でないと、まずとても書けない。先のことは分からないが、書くという行為は私ごときの戯れ文であれ、なにがしかの集中力を要する。

集中力、持続力は、どうやったら継続可能か、そんなことをつらつら考えるだけでも、なにがしかの意識の刺激を生む。体や心に、わずかな時間水を注ぎ込むような感じで、ブログを継続したいものだなあ、という、あわい期待が自分の中に生まれてきた。

以前はなかったことなのだが、書く前にとにかく昨日なにを書いたのかを確認して、今日のブログを書くように私はなってきた。流れる水がよどまないように、可能なら一日でもささやかに流れ続けてゆくかのような、五十鈴川だよりであれば、とどこか願っている。

まあいわば、ささやかに儀式化しつつあるということだろうと自分では思っている。ナルシスティックではあれ、自己劇化であれ、自分の性に忠実に歩むひとときを、大切にしたいのだ。以前だったらすごく情熱を傾けたことに対して、最近とんと情熱が湧かなくなるつつあるのはどうしてなのか。

そのことに関する、自己分析は短い文章では無理なので置くとしても、情熱を向ける対象が大きくかわりつつあるという気はしている。以前も書いたが、歳を重ねるに従っていろんなことに関して、身体がゆっくりと動き、ゆっくり考える癖のような、いい意味での変化が私に訪れているのを感じる。

昔は、億劫だったこトが、何とはなしに愉しくなったりするのだから、ヒトという器は意識の持ちよう心懸けで、実にいい加減に変化するのである。まさにヒトは不確かな実在なのであるということを思い知る。


今日もまた起きて、とにかく身体動かし、意識を動かす。そしてどこかになにかを見つける意識を持つ。よしんばなにも見つからなくともよし。元気、根気、やる気、ちりも積もれば、犬も歩けば、私の座右の銘、そのことは、今も心の片隅に置いている。

仕事前のひととき小雨の中、庭に出てなにがしかのことを妻がなしている、眼と眼で朝の挨拶。犬のメルが妻の周りを飛び跳ねている。ブログ用の写真を撮りに庭に私も出た。(初めて植えたセロリです)

2014-04-20

おもわぬA専務による春の青空農業講座(撮影N氏)

昔から、春眠暁を覚えずという。まさにそんな感じで、なんと9時間半も布団の中にいて、先ほど起きた。目を庭に転ずるとどんよりとした曇り空である。幾分肌寒い。だから、背中の近くでかすかにストーブで、団をとりつつブログを書いている。

私は、眠るのが大好きである。気持ちよく眠りに落ちるためには、余計なことにはなるべく関わらず、ひたすらよく体を動かし、(酷使しない程度に)体液の循環を良くし、ほどほどのカロリーをきちんととり、つましくも愛のある環境ですごす、ということが肝要だと、思い知る。

本当に、不完全な生き物である人間は、歳を重ねてゆくことが、ややこしくも難しい。ヒトは、他者の人生ではなく、自分の限られた人生しか生きることができないのだから、自分を通して、他者の人生を、おもんぱかるしかない、という限界を生きている。

朝から、何やらこ難しいことを書いているが、身体が限りなく朝型脳になっているから、御勘弁してほしい。夕方からではとても、身体がややこしことに関しては、思索放棄状態になるのを私は自覚しているので、もうアカンと思ったら、私はひたすら眠るのである。

悲しいけれども、自分の人生をしか、ヒトは生きることができない、ヒトの心の闇の奥深くまでは、理解できず、自分の心の奥深くまでだって容易にはたどりつこうとさえヒトは、なかなかにしようとはしない。だから、ヒトは関係性の中で演技するというスキルを身につけつつ、この複雑怪奇化してゆく世の中を、なんとか生きているのではないか、というのが現時点での私の認識である。

かくいう、私もなんとか演技をするという、いわゆる処世術を身にまとい、なんとかこの年まで生き延びてきた、という実感を持つ。そして今、この年になり思うのは、今後は限りなく演技なしの生活時間を、過ごせるものなら過ごしてゆく生き方を、と願わずにはいられないのだ。

だから、今、日中の大部の時間を畑で、演技しない植物たちと過ごしている今が、ことのほか充実しているのである。経済大国、技術革新の、なれの果ての結末の行方は、SF小説なども予測できない、展開を帯びるのではないかという気が、個人的にする。

このように書いてゆくと、限りなく暗くなりそうなので、いきなり、いつものように話は変わる。昨日畑に、いきなりA専務が現れ、私とN氏で、春の陽光を浴びながら思わぬ、A専務の農業への思いを聞く時間が持てた。


フカフカ絨毯のような牧草の上に座り、専務が持参したエクレアを頂きながらの、つかの間の人生途上農業講座となった。専務自身も試行錯誤の現在の農への思いの渦中を、虚心坦懐に語ってくださったので、働かせて頂いている我々としては、春の空のように、なにかが吹っ切れ心が晴れ晴れとした、畑ミーティングとなった。会議室ではこうはゆかない。

ことほど左様に、天と地は、あらゆる垣根をいともたやすく取っ払う。企業人として、わずかではあれ、従業員の生活の安定をはかるべく利潤を出す、狭き門を歩む覚悟をされている。それが伝わるのである。

なんとか、いいネギを生産し出荷するためには、よく寝て身体のコンディションを整え、可能な限り畑で良き、時間が過ごせるように、N氏とともに汗が出る間は、動き回りたいと思わずにはいられない。

2014-04-19

雨上がりの午後、ネギ坊主と雑草取りに精を出し、思う。

ヒアルロンサンたっぷりのネギ坊主
私が藤原新也さんのWMの読者であることは、五十鈴川だよりを読んでくださっている方は御存じだと思います。(20代の終わり、新也さんの本を読まなかったら、富良野で頭を冷やすことはなかったと思う)

世間の、小保方さんのメディア会見でのことに関する、投稿がたくさんWMに掲載されていて、それに目を通すだけでも、かなりの時間を取られたが、なんとか読みました。

私がほんのわずか、岡山を留守にして、一切の情報から遠ざかっている間にも、かまびすしく、あらゆる報道が、あらゆるメディアでなされていたのだということ、の当たり前を知り、いささか確実に以前の自分のようには、関心を持てなくなっている(もたなくなった)、自分がいる。

それはなぜなのだろうと、早急に結論を急ぐ必要もないのだが、私個人はスタップ細胞や最先端科学(化学)というものに、あまり関心がないというか、年齢的なこともあるかもしれないが、永遠の生命とか、若返るとか、美しいお肌とか、そう言ったことに興味がわかないのである。

終り(終わりとは何かという問いはひとまず置いといて)があるから、素晴らしいと言う側に、私は立つものである。しわだって美しく、時に私は感じる。顔をはじめ生き方は、細胞にでる。いくら、お金をかけて、細胞に擦り込んでも、無駄なものは無駄である、そんな気がする。

生の輝きは、やがて死ぬということを、意識できるからこそ、輝くのではないかという側に、私は立つのです。若いころ、ただ働いて、あこがれのヨーロッパやアフリカにゆくこともなく、一生を終えるのかと考えた時、居ても立っても居られないくらいの、気持ちに襲われました。

将来、どんなに苦労しても、行きたいところにはいってから、悔いなく死を迎えたい(正直そこまで深刻には考えていないから出来た、それが若さです)とまあ、そんなことをノー天気に考えていました。

話は変わり、昨日の午後、雨が上がって畑にゆき、葱畑の雑草取りと、ネギ坊主採りに精を出しました。農薬を一切使っていないので、雑草の伸びる勢いには、たまげてしまう。根気強く、辛抱しながら、休み休み4時間近く続けたのだが、雨上がりで涼しく、かなり作業がはかどった。

地から浮き上がったかのような、都会発の喧騒メディアにはほとほと背を向けたかのような、の私の静かなくらしだが、何の不都合もない。人工的な物音一つしない畑、雉や野鳥の声を聞きながら、ただ淡々と身体を動かして、手ごわい草や、ネギ坊主(匂いがすごい)と相対する時間。

人間が仕組んだ世界とは程遠く、一喜一憂しない世界の側に身を置き、私は人生の歩みを終えたいと、還暦を境にしきりに考えるようになってきた。

40歳で都会を後にした私だが、その念いはますます深まってゆく。命に対する畏敬の念が希薄になってゆくにつれ、社会はからからに乾き、人心砂漠化してゆく。太古に静かに思いをはせる。現代時間に、足をからめとられる、愚は避けたい。スマートフォンは深呼吸しない、食えない、命がない。

みずみずしい、雨上がりのむっとする草たちの生命力にあやかりながら、私は手足を動かす。畑は私にとって、修行(業)、言葉がいかめしいが、行いを修めてゆくところのような気がしている。

可能な限り、みずみずしい、ブログでありたい、隠居まで。家に帰って、ひと風呂。満足である。


2014-04-18

足元のネギとともに、今を耕し、ほのぼの感にひたる。

畑にとっても、私にとっても恵みの雨となった朝、やはり何か書きたくなる私です。
珍しく小説を読んでいます

働くということは、なんてことを、この年齢なりに(なっても)考えてしまうようなことがやいまだあります。朝一番に書くことは、野暮この上ない気もしますが、18歳からの世間の荒波を何とか、くぐりぬけ生き延び、現在畑にたどり着いた私が、今思いいたれること。労働の苦喜楽について。

深く思いを伝えるべく書きたいとは思うのですが、長きにわたって私のブログを読んでくださっている方は、分かってくださると思うので、よすことにいたします。相当書きこまねばならないので。

さて雨が上がったら、ほんの少しの時間畑に行ってみようかなと思う自分がいます。仕事とは関係なく、何とはなしに畑がだんだん気になってきつつある自分が育ってきているのです。たった半年ですが畑にいる自分が、ことのほか愉しいのです。

自分が開墾から関わった畑にネギを植え、そのネギが成長してゆき、やがて出荷してゆくまでの一連に関われるということは、私にとっては仕事で、生きる糧を得ることもさりながら、それだけではない価値が、十二分に含まれていることを、実感しています。

根を生やし、命を天に向かってつきあげるネギのエネルギー、雑草を含めた、あらゆる畑の周りの、春の生命力の爆発には、まったくもって、脱帽いたします。人間のいい意味での爆発する力はどこへ行ったのでしょう。あやかりたいものです。

私は、おのれの枯渇寸前の身体が、何やら若々しく生き返ってくるかのような錯覚を時折畑で感じることがあります。柄にもなく、命の不思議に感じ入ってしまうのです。こういう感覚を持てているときの自分はほのぼの幸せ感に、浸れます。

62年かかって、何やら臆面もなくおのれの現在を、厚顔無恥に書けることに関して、これはもしかして夢では、なんてことを冗談にもせよ思う時があります。

私ごときの、人生でも山あり谷ありでしたので、ことのほか素朴に、謙虚に感謝する自分がおります。人生一寸先のことは、分からないのですが、ともあれ見果てぬ先のことよりか、足元のネギとともに在る自分を確認する。

一日、一行、何やらを行い、ひっかき耕す。お開き。



2014-04-17

6月7日(土)夜、6時半から天神山文化プラザで、シェイクスピア遊声塾の発表会をします。

畑仲間、N氏と働くのは楽しい。まったく対照的な性格だし、何とはなしに感じるのは、子供っぽいというところが、抜け切れていない良さがあります。多くは語らないものの、きっと様々な苦労をしてきたことが、いい方向に出ているように私には感じられるタイプです。

人間あまりに苦労すると、あくまで私の個人的な感じですが、煮ても焼いても食えないようなタイプに、変身してゆきがちのところが、あるものですから。何故いきなり氏のことを書いているかというと、朝一番に私のブログを読むということを聞かされ、何とはなしに、N氏おはようさんです、という感じなのです。

自分でも、生き方に融通がきかず、何とはなしにあまり楽な方には、流されないような生き方を選択してきた私ですが、そのことの是非は置いといて、愚直に生きた両親から、多大な影響を受けているものですから、それだけはしょい続けて生きてゆく覚悟のようなものは、もう消しようがありません。

要は、楽に生きようが、苦に生きようが、人生のつじつまは、最後にその審判が下るということではないでしょうか。大人になるということは、どのような人生を送るにせよ、要はある年齢になったら、覚悟をいかに決められるか、決められないのかの、判断力、決断力、もっといえば勇気が、とくに男には、大事ではないかと思うのです。

私は、男なので、女性のことはまるで分からないのですが。

話は変わり、昨日の夜は遊声塾でした。畑から直行、Y氏、と3月から参加の27歳、若いH氏の3人で、集中無心の声だし時間を過ごしました。若い方が参加されたことで、にわかに、塾がやはり活性化してきました。
文学座のアトリエの入り口に35年ぶりに立つ

私自身がレッスンをしていて、楽しいのです。青春特有の初々しさがいまだありまして、私の青春時代をいやがうえにも思いだすのです。なんというのでしょうか、血がたぎるような人生の時間はかけがえのないものです。

だから、夢中で稽古をするのですが、読んでいるテキストが、ロミオとジュリエットのセリフ、時折なんとも不思議な現代の感覚とは、ずれのような気分を多々味わいながらも、何かとても新鮮なつかの間の貴重というしかない、ひとときを感じます。

一言でいえば、面白いのです。予期しない面白いことが、稽古をしていると起こってくるということの不思議さがあればこそ、少人数ですが続けているのだと思います。

ところで来る、6月7日の夜、6時半から遊声塾のささやかな、普段のf練習の発表会をします。天神山文化プラザ第5教室です。又何度か告知しますが定員は先着30人です。

どんな形でも結構です。日高まで申し込んでください。もちろん無料です。時間は1時間15分くらいを予定しています。心からの御来場をお待ちしています。


2014-04-16

今後どのように生きてゆけばよいのかを考える、良き旅でした。

昨日、長いブログをなんとか書いて、6日ぶり畑作業をなんとかこなし、家に帰ると、充実波乱の旅の疲れが出て、すぐ横になりました。妻が心配しましたが、何もせず横になり、夕飯を無理やり詰め込み、再びすぐ横になりました。

そして、先ほど目覚めたら、身体が軽くなっているので、ほっとし安心しブログタイムというわけです。昨日畑に、ブログよく書いた、読んだよー、とK氏からメールがありました。書いてよかったと思います。

今書きながら、何も考えず書いているのですが、何か白い画面につらつら書いていると、書きたいことがやがて出てくるということが、つまりは私にとっての、今日のブログということになるのです。

いまだ、旅ボケ冷めやらぬ私ですが、いい意味での、老い、人生の秋、深まりの妙のようなことを、感じてしまう年齢になったことを、つくづく知らされる、良き旅でした。

ゆったり在来線乗り継ぎで始まり、バスと新幹線、限られた時間、乗り物(東京地下鉄詳しくなりました)を有効に使い、豊かに面白く、旅を演出出来る自分がおりました。

姪の結婚式参加によって生じた5日の旅。男と女、家族、兄弟、親戚、友、知人、この人生浮世物語の展開が、最後芝居を久方ぶりに堪能することによって、終わりました。

そして、映画のタイトルのように、人生は続いてゆくのですが、この私自身の結末はまったく分からない。ただそこに向かってゆくためには、何をなすべきなのかが、かなり私の中で鮮明になってきた、見つけることができた、旅となったような気がしています。

今回、いろんなことを考えさせられたのですが、、書くのが面映ゆいのですが、やはり人生の宝は、自分にとって心から大事なかけがえのないものが、いかほど存在するかによっている、ということに尽きるという、気が今しています。
どんなことがあっても戦争には反対です。

大事な人がいる。会いたい人がいる。そのように思える人が、我が人生を豊かにしてくれ、世界を彩っているということに、対する気づきが深まったように思えます。

ほんのわずかな時間、ほとんど話したことがない親戚の方とも、短い言葉のやり取りを交わしました。、以前の私だったら儀礼の範囲を超える会話は、おそらく無理だったかもしれないのですが、今回は以前とは異なる自分がおりまして、何かすべての出来事が楽しめました。

そういう心持になれる今を大切にし、そういう感じを持続できるように、今後何を生しながら活きてゆけばいいのかのヒントがつかめえたかのような気さえしています。

古坂るみ子さんとの、つかの間の35年ぶりの再会は、まったく予期しないことだったので、いまだその余韻、冷めやらずです。今後、チャンスがあれば可能な限り、彼女の舞台を見たく思いますし、よしんば私が無理でも、娘に見てもらうことは可能です。時間は流れてゆき、新しき世代が受け継いでゆきます。

一日一日を悔いなく、まあ、与えられた場所でそれなりに生きることの積み重ね、それしかないとさえ思えます。それなくしては、意外なことは起こり得ないのだと思います。

2014-04-15

姪の結婚式のおかげで、意外性というしかない、旅の締めくくりの出来事が起きました。

35年ぶり文学座のアトリエの前で、昨日
4月15日の朝です。軽井沢での姪の結婚式のおかげで、ちょっと贅沢なまる5日間の旅を終え昨日の夜9時過ぎに帰ってきました。

さすがにくたびれて、すぐに荷をほどき、こまごまとかたずけ、すぐに休んで先ほど起きて、速やかに画面に向かっています。

何やらまだ、時差ぼけならぬ旅ボケのかんじなのですが、何やら書かねば、と、気は焦りつつもまだ、身体が起きていないといった塩梅。

たった五日というべきには程遠き、私にとってはいささか濃密なというしかない、何かから御褒美を頂いたというしかないほどに、幸せな時間を過ごすことができた旅となりました。

このブログで又、お休みの日に、ことの顛末他、書きたいことはゆっくりと、又休日にでも書きたく思いますが、とりあえず何か書いておかないとと、思わずにはいられない、悲しき嬉しき性なのです。

10日は、朝5時半の汽車で、ひたすら東海道線上京、車中読書と、い眠りと、車窓を眺めてのモノ思いに耽っていると夕方6時には、品川につきました。

隣の田町の常宿の宿には、親友のK氏が待っていてくださいまして、その夜は田町で軽く再会の夕べ、少しのおいしいお酒と、日本食を頂き語り合い、気の置ける友との楽しいひとときを満喫しました。

翌11日は、午前中少し田町近辺を散歩したのち、羽田へ。宮崎からやってくる兄や姉を向かえ、東京駅に見送り、私は羽田で少しのんびりお昼を澄ませて、バスで軽井沢へ。

夕方5時ごろ、結婚式が行われる星野リゾート着、これまでの人生で初めて泊まる、私にとっての贅沢な、リゾートホテルに姉と二人で同宿。

すぐ姉と温泉につかり、結婚式に参加する人たちと、旧交を温めのんびり夕食ののち語らい、早めに姉と語らいながら床につきました。

12日夜中、姉と満点の星がまたたく中、24時間入れるもうひとつの温泉に入り、再び床に、早朝またもや温泉に、この温泉は、これまで私が入った温泉では最高の雰囲気の、贅沢な温泉でした。だから姉とともに2回も足を運びましたが、夜中は男湯は私一人でしたので、もう最高でした。

姪の結婚式は11時から、すべて終わったのが午後2時半、静かな別世界の挙式でした。参加者全員からの、祝福を受け幸せな結婚式でした。兄夫婦がやはり一番ほっとし、嬉しそうでした。

終えて兄たちとお別れ、私と姉は羽田へ。東京駅に着いたのが5時近く。丸の内で娘と婚約者のレイ君が待っていてくれたので姉に紹介し、少しお茶を飲み語らい、私と姉は羽田へ。7時過ぎの飛行機で宮崎に帰る姉を見送り、私は調布に住む娘のところに、この日は泊まりました。

娘とレイ君が、夕食を作ってくれていて、8時過ぎから親子3人で夕食をし、食後カメラの写真をレイ君がテレビにつなぎ、大きな画面で私が撮ってきたいろんな写真(岡山での生活の写真を多く含む)を楽しく見ながら語り合い、用意してくれたベッドでぐっすり寝ました。

13日、娘のところを早めに出て、手荷物を預けてから神田へ、お昼すぎまで神田で過ごし、古本をなんと8冊も買ってしまいました。午後2時半から、岩波ホールでアンジェイワイダ監督の最新作・ワレサを観ました。ポーランドの民主化に欠かせなかった・連帯・を率いた人物の人生を描いたフィルム。岡山ではなかなか見れないので、とにかく見ました。(私の中ではアンジェイワイダは高齢だし、とにかく生きて映画を撮っている限り、観たい映像作家の一人です)

観終えて、銀座を一人散歩し荷物を取り、三田の宿へ。午後7時近く親友K氏と再び合流、9時過ぎまで宿で氏の用意してくれたビールとおつまみで語らい、最後に外にラーメンを食べにゆき、その夜はお開き。
K氏は東京タワーが大好きです

そして、14日昨日です。早めに岡山に帰る予定だったのですが、何故か私が27歳の時に、1年間通った文学座に、(中央線に乗っていたら)急に行ってみたくなり、急きょ信濃町で下車、記憶を頼りに35年ぶり、行ってみると近くに新しいビルが建っていて、事務所はそこに移転していましたが、私の中に記憶のままのアトリエは、なんとそのまま。朝まだ早き9時過ぎアトリエには誰もおらず、なんと鍵がかかっておらず、わたしとK氏はその無人のアトリエに入りました。

続きは、又休日にでも書きたく思いますが、何せ昨日のことなので、若き日の春の日々のことが昨日の出来事のように、思いだされてきて、しばし呆然と堰を切ったかのようにいろんなことが一気に蘇ってきたのです。

とどめは、一枚のポスター、今三越劇場で上演されている芝居の出演者の名前に、私と同期の古坂るみ子という名前が、飛び込んできたのです。

私は、35年ぶり、どうしても古坂さんに会いいたくなりました。予定変更、芝居を見ることにし、事務所があくまで近辺を散歩、朝食を済ませ、10時過ぎ再びアトリエへ。チケットを予約しました。とても親切な方で、同期だというっと、一割引きにしいてくださいました。

マチネーで午後一時半まで、時間があるので、私は初めてK氏とともに靖国神社にゆき、そこから歩いて、再び神田に向かい、K氏が教えてくれた。映画や演劇専門の古書店で、ニキ―タ・ミハルコフ監督に関する資料を探しました。黒い瞳のパンフ他が手に入りました。(又書きたく思います)

午後一時半から、古坂さんが出ている芝居観ました。これが素晴らしかったのでまたゆっくりと書きたく思います。

観終えて、慌ただしい楽屋を訪ねると、喜んで時代物のかつらを外したお化粧のままで、会ってくださいました。青春を共に過ごした同期というものはありがたきもの、ジーンときました。彼女は今シャンソン歌手としても活躍していまして、別れ際最新の発売いされたばかりのCDを私にくれました。

私たちは、再会を約束しました。最後の一日は、思いもかけぬ大どんでん返しの一日となったのです。サイコーの意外性、これがドラマだと、見違うかのような。


観終えて、慌ただしく三越から神田まで歩き品川へ、荷物を引っ張り出し、詰め替えて、5時17分の新幹線に飛び乗りました。

この間、影のようにK氏がすべてをサポートしてくれました。持つべきものは友という以外にないくらい、今回もまたあれやこれや言葉なき次第です。この場を借りて深く感謝します。ありがとうございました。

西大寺駅に着いたのが9時、重い荷物を持って帰る道すがら、いろんな思いが去来しました。

2014-04-10

軽井沢へ出かける直前の朝ブログ。

昨日は、畑、遊声塾、と私にとってはハードではありますが、充実した一日を過ごし、今日10日、なんとか早起きし、あまり時間の余裕がないのですが、ブログを書いて、これから東海道、上京の旅に出けかけんとしております。

バタンキュウで寝て、4時間熟睡、朝湯をして、パソコンに向かっています。この年になっても、何かうきうきする、自分がいまだおりまして、時間を気にしないのんびり旅は、せっかちな私なのですが、変なところは、限りなく気が長いのが、不思議です。

これまで、十二分にあくせくと、身過ぎ世過ぎてきましたから、もう決して、あくせくしたくはないのです。限りなく、晩年は、気の赴くまま、あるがままに、質素を旨とし、穏やかに、生きてゆきたく思うのです。

ちょっと多めですが、、4冊の本をリュックに詰めました。これさえあれば、時間は過ぎてゆきます。その他は最低の荷物にしたのですが、結婚式に着る背広だけは、持ってゆかなければならないので、普段の旅よりは、少し多めです。

軽井沢の帰り、娘や友人にも合う予定なので、それも楽しみの一つです。東京では、何か見てこようと思っています。

普段の日常とは異なる時間が流れる旅の時間は、やはり年に数回は、いまだ私には大切な時間です。やがてはそのような時間も過ごせなくなる、ということが以前にもまして、実感できる年齢になりましたから、これからの旅は、国内外問わず、長い短いではなく、貴重に思えます。

日常と、非日常の、往還は限りなく私には大切に思えます。これまで身に余る、多くの企画をさせていただきましたが、きっと非日常に対するあこがれが、私の場合強かったのだろうと、今は冷静に思えます。そしてそれはいまだ止まずという、塩梅なのだと思います。

旅のような感覚で、何か晩年いい企画が、自分の中に生まれてくるか来ないのかは、判然としませんが、とにもかくにもアンテナの赴くままに、自然体での歩みをと、願うしかありません。永遠に未完成で、道半ばが、いいですね。

ともあれ、もうすぐ出発なので今朝のブログは、これにて。今日は写真はパスです。N氏畑よろしく。



2014-04-09

思わぬお葉書をU女子から頂いて、オシャレについて考える。

カルチャープラザで、たった一人の貴重というしかない生徒さんU女子からお葉書をいただいた。

こないだのレッスン風をひかれて、お休みを初めてされたので、心配していたのだ。端正な文字で書かれたお葉書で、少し安心した。何せ、高齢なので、こじらせないように、と願うしかない。

私が軽井沢に、姪の結婚式にゆくので、良きご旅行をと添え書きがあった。消費税分の2円の切手が張られた葉書。

繰り返し、3度ほど読んだ。今も手元の置いてブログを書いている。この5カ月、毎週月曜日午前、二人だけのレッスンを続けているが、この二人だけのレッスンは、私にとっては、とても大切な楽しみの時間となっている。

逆になって考える。もし自分が彼女の年齢で、あれほどきちんと一人で矜持を持って、端然と生きられるだろうかと、私はUさんを見ながら、自問自答する。

ヒトはどんな人間も老いてゆく。いま超高齢化社会が訪れているが、私は母と、Uさんから可能な限り、いろんなことを学びながら、老いに向かい合いたいという気持ちをもって生きている。

どうしたらあのようになれるのかを、ささやかに自問自答するしかない。二人に共通するのは、好きな世界を持っているということと、本質的にユーモア感覚が在る、それからオシャレである。

こんなことを、書くのはいささか恥ずかしいのだが、上の娘が巣立ち、私が再び働き始め、数十年ぶりおこずかいが増えた。そこで、男の私ではあるが、還暦も過ぎたのだし、これからは少しオシャレというものに、関心を向けてみたいというか、着るものに関して、少しこだわってみたいという
感覚が芽生えつつある。

オシャレと、一言でいうが、その人らしいオシャレだなあ、と私が感心するようなオシャレをしている方は、さほど多くは見当たらないというのが、正直な私の印象だ。

ぼろっちい、着古したものを着ていても、その人の何かが備わっていれば、かっこいいと、私は感じる。私の尊敬する、中村哲先生は、いつも同じような背広姿だが、もうほかの服を着ている姿が想像できないくらい、私からすればかっこいいのである。アフガニスタンで重機をあやつる先生はサイコーにカッコイイ。

話を戻す。一口にオシャレというが、本当に奥が深い。イギリスの劇作家、オスカーワイルドは、衣装は肉体の一部だと、言っている。

刑事コロンボの衣装も、車も、コロンボ警部にはぴったりである。内面は外面に出るとは、シェイクスピアの言葉。ことほど左様に、衣服を含め、外面を覆いかざるものは、見る人が見ればすべては、さらけ出してもいるというわけで、恐ろしいことこの上ない。

ヒトは生きてゆく術として、あらゆる仮面を情況に応じて、身につけねばならないという宿命があるとはいえ、老いてゆくことの中で、その仮面を一枚一枚はがしてゆくオシャレを、ひそかに楽しめたら、これもまたいとおかし、と私は考える。

お金のあるなしに関わらず、何かを工夫して楽しむ知恵のかたまりのような時代が1万数千年の遥か昔、縄文時代には、文字や紙すらなかったのに、高度で豊かな文明があったということをわずかだが知るにつれ、今我々が過ごしている時代のなんたる画一的面白みの少なさには、いささかまいる。

ともあれあ、朝から思わぬ流れになってしまったが、もし私らしくオシャレができるものなら、ささやかに、追求してみたい。


2014-04-08

春、降水確率ゼロの日の朝に思う。

眼ざめごみを出しにゆき、夜明け前の頭上の星ぼしを眺めながら帰ってきて、おもむろにパソコンを開いた。陽が長くなってきたが、いまだ外は暗い。この時間帯に起きている人は、おそらく少ないだろうと思う。
畑のの近くで採れる蕨・神の恵み

若いころは、典型的都会人で、夜型だったのだが、岡山にやってきてまったくの朝型人間になり、22年が過ぎた。歳とともに朝が大好きになりました。夜明けのコーヒ―がおいしいです。

このところ我ながら、よく書き続けていると、ささやかに感じる。いよいよもって日々確認ブログ、または、日々徒然、雑感ブログと化しつつあるような、気がします。書き始めたころからすると、やはりうすーく、うすーく、微妙な内面の変化が感じられるような気が、私にはしますが、はっきりとは分かりません。

ささやかに、読んでくださる方々の存在あればこそ、書き続けられているのです。妻が読んでくれているのも、やはり大きいです。何せ、出会うまでの、私自身の暮らしはまるで知らないのですから。

そういう意味では、夫婦というのは、まったく誤解とずれの感覚を、お互い持ち続けながら、ともに旅をするパートナーというしかない存在のように思えます。

まして子育てを終えたなら、これから先はどのようになってゆくのかも含め、また新たな展開が、在るのかないのか、誰にもわかりません。

ただ言えることは、いないとたいへんな空虚感にとらわれることは間違いないという気がします。かけがえのない存在ということだと思います。

まさか、朝からこんなことを書くとは、つい先ほどまで思わなかったのだから、未来は予測できない。きっといつの日にか、最終回のブログで、妻との出会いの不思議な一日のことは、きちんと書いておきたいとは、思います。

ですが、よしんばそれが書けなくても、それはそれでいい、といったいささか矛盾した感情も在ります。まして、人間の脳は、つらいことは避け、過去を美化し、楽しいことのみを思い出すといった、自浄作用のようなものがあるように思うからです。

ただ、出会う偶然を、必然的に感じてしまうように、勝手に脳が働くということは、生物の防御的本能だからいたしかたないとも思います。

気になるとか、心配だとか、愛するとか、居ても立っても居られないとか、ありとあらゆる意識の発露は、身体の中の一体どこから、生じてくるのか、まったくあやしくも、謎のままがやはり最近は素晴らしいと、私は思っています。スフィンクスの謎。

分からないということのなんたる素晴らしさ、だからこそヒトは、触れ、話し、日々を新しくやり直し続けることが可能なのでしょう。

4年半近く書き続けて思うことは、自分だけのはたを織るようにな感覚に最近はなるつつあるのではないかという気がしています。もっと書けば、いつかは終わるその日のために書き続けているのではないかという感じです。

なんか、お掃除感覚ブログになりつつあるような。ともあれ、陽が昇ってきます。今日は降水確率ゼロの予報です。畑が待っています。

2014-04-07

穏やかな春の日差しが庭先に降りそそぐ朝に思う。

謙遜でもなんでもなく、軽佻浮薄を自認している私だが、歳とともに少しは重く、厚くなれるものなら、なりたいという明るい煩悩のようなものがいまだ止まない。

DNAは不変ではあれ、三夜も見続けた、細胞の神秘、今現在の最先端の番組は、命の神秘の不思議に、思いをあらためて至らせた。だから、朝からこんなことを書いている。

ご覧になった方も多いと思うが、今朝はそのことに関しての感想は、まとまらないので触れないことにする。ただ、生き続ける意味の確認として、死は神の領域であり、事故とかではなく、寿命という意味での、死を迎えるための生を全うする、、、。

帯津先生のように、私くらいの年齢になったら、日々死についてささやかにいくばくかの思いを巡らすような生き方を心懸ける、と、何とはなしに日常が、新鮮に感じられるような気が私はしている。

それは、愛おしき感情としか、言葉にすると言えないような感覚なのだが、センスオブワンダーな世界を、感知する力をなくしたくはない、との思いである。
妻の大切なミニガーデン

何かにすがるような感覚で、何かを綴りたい(うまい下手ではない)という、私ごときのブログでも、何故湧きいずるのかは、以前も書いたが、遺伝子がそうさせるのか、よくは分からないのである。

その生命感覚の、不思議さは、いとおかし、もののあわれ、というしかない。福岡伸一さんの本によれば、37億年の生命の歴史の中での人類の歴史は、ほかの何億年も変わらないゴキブリなんかに比べれば、人類はまだ新参者にすぎないということ、らしい。

この数10年のハイテクの驚くべき進歩、科学物理をはじめとする、あらゆる分野での新たな発見が、かまびすしく伝え知らされるが、知れば知るほどに、未知の領域が広がるという逆説。

人類の抱えている哲学的苦悩はいまだ止まない。だからこそいきることが、素晴らしいのではないかという気が私個人はしている。


2個の細胞が分裂を繰り返し、60兆の細胞になり生命体を生し、やがて寿命となす大いなる旅。身体は宇宙そのもの、その生命はあらゆる生命体とつながってこそ、在る。野暮な言葉は空しい。

書きながら、庭先に眼を転ずると、昨日とはうって変わってやわらかな朝日が万物に降り注いでいる。穏やかな静けさは、まるで浄土を思わせる。







2014-04-06

蟹江敬三さんがお亡くなりになりました。心からご冥福を祈ります。

蟹江敬三さんが亡くなった。舞台美術の朝倉摂さんも亡くなったし、舞台一筋で、、TVにはほとんど出なかった松本典子さんも亡くなったのを、新聞で知った。蟹江さんはともかく、朝倉さんや、松本さんは、私のブログを開いてくださる方でも、ほとんど知らないのではないかと思う。

私は若き日、蟹江さんの熱血の舞台を見ている、清水邦夫作・真情あふるる軽薄さ・と・泣かないのか泣かないのか1973年のために・はいまだかすかにシーンシーンが記憶に残っている。石橋蓮司さんとのコンビは、無二である。

朝倉摂さんの、唐十郎さんの下谷万年町物語始め、いろんな舞台美術が、すごく印象に残っている。松本さんは、劇団民芸で観た、・にんじん・の舞台が記憶に鮮明だ。蟹江さんも、松本さんも、いい俳優は、声に特徴があって、声質がいつまでも記憶に残るのである。だみ声でも、美しい声は、あるのである。

宇野重吉先生、杉村春子先生、滝沢修さん、東山千栄子さん、すまけいさん、三国連太郎さん、大滝秀次さん(きりがないのでやめます)、味のある声というものは、一朝一夕にできるものではない。命がけの人生を生きてきたものだけが獲得できる、存在感というしかない。かなりの名優たちの声を生で聴くことができた、私は幸せである。
私が5歳の時に書かれた宇野重吉先生の本

1970年代、今振り返ると、やはりかけがえなくいい時代を私個人は過ごしたのだと思う。ほぼ十年、外国での観劇体験も含め、よくもまあ、最低生活しながら、あんなにお金が続いたものだ。

狭き演劇村のような、生活空間を徘徊しながら、なんとか若い私は必死で生きていた、のだなあと、今ようやく静かに振り返ることができる。あの時代のおかげで、私の今はあるとさえ思う。

あの時代の東京都心に、田舎から集まった、若き多分野の才能アあふるるエネルギー、放出熱気がむんむんしていて、その渦中を若さにまかせ過ごすことができたことは、かけがえがなかったのだと今は思える。あちらこちらで、若き私は、劇的興奮を日夜存分に味あわされ、無知をいやというほど思い知った。

こうやって書いていると、次から次に見た劇場のことまでが記憶の底から立ち上ってきて、いまだ私は、若き日に立ち返る、錯覚感にいざなわれるくらいだ。青春時代、振り返るとほろ苦き感に包まれる。恥ずかしきことの数々の上に、なんとか今を生きていることの不思議を思う。

おそらく、ヒトはみんな、すれすれのきわどいところを、何度もくぐりぬけて、生きてゆかざるを得ないいきものではないかと、私は考えている。無様であれ何であれ、与えられた生を何とか全うすることこそが、肝要だと思う。時代もおのれも変わり、生々流転する。

話を戻す、蟹江さんとも、もちろん松本さんとも、間接的に舞台を見ることでしか知らないのだが、その時代が生みだすというか、その時代が醸し出す、濃厚な空気感を見事なまでに、顕在化していて、田舎から出てきたばかりの私は、あらゆる点で圧倒され続けたものである。

私が元気な間は、蟹江さんも、松本さんも、朝倉さんも、私の中では生き続ける。そのような記憶に残る、輝いたお仕事をされた素晴らしき人たちの舞台(あらゆるライブ)を若き日に、わんさか見ることができたことができたことは私の青春の誇りであり、幸運という以外にない。

同時代を、ささやかに共有感覚で、生きられるということの、何という劇場空間の人間が生きているということの、観客と一体となった感動の渦のざわめき、ときめき、血潮が沸騰する青春、今もどこかでそのような時間が流れていると私は信ずる。還り来ぬ青春を、悔いなく生きてほしい。

やがてみんな歳を重ね、この世の舞台から、シェイクスピアが言うように、姿を消してゆく。いちいち記してゆくこともかなわないが、すでにお亡くなりになった、私が影響を受けた、素晴らしき舞台人、映画人の方たちの、御冥福を祈らずにはいられない。

2014-04-05

久しぶりに本屋さんに、佐藤優さんの本を買いにゆきました。

思わぬ時間ができたので気分転換も兼ねて、昨日岡山の書店まで本を買いに行った。何度も書いているが、とても読み切れるものではないが、本屋のあの静かな空間が私は好きである。

あんなにも本を読まなかった幼少年時代を過ごした私が、本を手放せなくなったのは、ロンドンで一年近く過ごしてからである。以来本書物は、オーバーではなく、食べものの次に、お金を使ってきたくらいである。

私のわずかな、おこずかいの中からだから、大した金額ではないのだが、ちりも積もればなんとやらで、もうなるべくは買わないようにとは思うものの、お財布にいくばくか、自由になるお金があると、つい買ってしまう。

きっと、大学にもゆかず、高校時代も遊んでいた、つけというか、無知蒙昧なるトラウマが、わたしにはあって、そのことがいい意味で私を、本の世界にいざなわせているのだと、自分では思っている。

知的な教養に対する、永遠なるあこがれのようなものも、私にはある。読書人たる、資格も能力も私にはないが、働きながら、本を読むのが、やはり私には一番合っているように思う。

このような、私がわずかな自由な時間、最近といっても、この6、7年かなり読んでる作家の一人が佐藤優氏の本である。1960年生まれの氏の本の数々から、私は勝手にいろんなことを学ばせて頂いている。とても学びきれるものではないが。

勝手に、私の先生くらいに思っているくらいだ。その誠実な、博覧強記ぶりには、まったくもって驚かされ続けている。氏はキリスト者で、神の存在を信じていて、その信念の深さからなのだろう。収監されても、おたおたしない。

深く書く、時間の余裕はないが、本をわずかではあれ、読み続けることがなかったら、氏の本にも出会うことはなかったであろう。一冊の書物によって、頭の中に無数の光が差すような瞬間が確かにあるといった、経験を幸運なことに、私も何度かしている。

今に至るも、かろうじて自分自身に対する懐疑を持ち続けるのを、一日でも先延ばしにしたい、といった感覚は、多分読書を持続(読んだ本の多寡ではなく)してきたからだと、自分では感じている。

氏は、硬軟にわたって、たくさんの本を外務省を辞してから吹き出すように書かれている。たまりにたまった知性が爆発するかのように。自分で感動して自分の言葉で書かれているので、私にとっては難しい本も、それなりに読むことができる。

(私が好きな方たちの本は、すべて、中村哲先生の本もそうだが実体験、感動が根底にあって、自分の言葉で書いておられるので、胸に迫ってくるのである)

昔だったら、敬遠していたようなたぐいの本も、氏の推薦なら、なんとか手にして読んでみたいと思ってしまう。愚直に真実に迫る誠実さは、現代のメディアの中の、言論人の中で、はなはだ貴重な
方ではないかと、個人的に思う。

思想信条が異なる方々とも、色眼鏡なく忌憚なく、言論でやり取りする。その教養あふるる胆力は、半端ではない。氏の本は年齢に関係なく、謙虚に学ぶ姿勢の素晴らしさを、教えてくれる。



2014-04-04

岡山軽井沢往復の旅、来週末姪の結婚式に出かけます。

時は金なり、が実感として分かる年齢にようやくなりつつある現在、晴耕雨読の職場に巡り合ったのは、私には実に合っているのを、感謝しつつ日録的ブログを、書いている。
畑の頭上の雲変化のかたちはなんとも言えない

昨日は素晴らしい春の陽気、今日は春の嵐のようなお天気で、こうも人間はお天気に左右される生き物かと知らされる。平日、妻は仕事なので家の中が実に静かで、こういう日はやはり本を読んだりして、静かに無為に過ごすのも、一興である。

身体を使う畑仕事なので、こういう日にこそゆっくり体を休めることが肝要なのだ、そのことを雨は教えてくれる。植えたネギにとっても、恵みの雨である。

晴れの日と雨の日の、兼ね合いで作物は育つ。人間も又しかりなのだと、ようやくにして達観する、何事にも気づきの遅い私である。動かず、じいーっとしていることの、面白さなんかも、歳をとることの、妙味なのなのだということを感じ始めた。坐して瞑想の雨のひととき。

ブログを書くことで、写真を撮ることも好きになってきて、対象をじっと観察するゆとりのような感覚がましてくるし、若いころとはまるで異なる面白さが晩年にはある。スローライフ、いいものである。

ところで、来週末12日、姪の結婚式が軽井沢であるので、姉と兄たち、私の4人が軽井沢にゆき、久しぶりに再会する。以前もブログに書いたが、タイに住む弟も含め、何はともあれ姉兄弟5人が元気であり、そのうち4人が姪の結婚式に参加し、門出を祝えるということは、目出度いことである。

折々の人生の門出を祝福できるということは、何よりも幸せなことである、と思い知る。身うちであれ、他者であれ、人の幸せが心から喜べる人生の今を、生きられていることが嬉しいのである。いろんな意味で余裕がなければ、思いはあってもなかなかに難しいのが、又人生の常だからである。

自分を作物に例えれば、あらゆる要素がそろわないと作物は育たない、人間もまた然りである。そういう意味で、ようやっと他者を思いやれる、人生の季節が我が身に訪れてきているかのような按配である。

ところで、東京まで40数年ぶり、在来線を乗り継いで、本を片手に行ってみようかと急に思いついている。時間に余裕のある暮らしができる、今元気なうちにこそ、やってみたいのである。この十数年宮崎までは、何度も在来線や、特急を乗り継いで帰っているが、東京の方はまったく使っていないので、小さき冒険をやってみたいのだ。

私は、何度も書いているが、汽車の旅が好きなのである。一週間、若き日シベリア鉄道に乗ったことは、我が青春の誇りである。人は年とともに、きまりきったかのような生活をやがては余儀なくされることは、甘受するほかはない、とは思うものの、ささやかな冒険心は、可能な限りいくつになっても持ち続けたいものである。

昔は、お江戸までの旅に、人々はどれほどの時間を費やしたのだろうか。岡山を朝早く発ち、夜の8時にはつくのだから、早いものである。10日から14日まで、久しぶりの完全オフ、東京経由軽井沢往復の旅、普段とは違う時間が流れるだろう、その間はしばし、ブログを書くこともかなわないが、それもまたよしと思う。

ノートと、本とカメラを片手に、しばし日本の春を、車窓から眺めながらの、のんびり旅、健康なればこそである。


2014-04-03

大切な家族とともに、春一番の山菜を頂くゆうべのひととき

万物に精気があふれ、樹の芽が吹き出す、春はあけぼの、森羅万象が輝き始めました。今日も終日畑で、N氏と過ごしました。(N氏、なんなあ、なんなあとネギを植えながら繰り返しつぶやく、これは私とN氏にしか分からないので、よまなくて構いません)夕食後、一寝入りし珍しく夜中のブログタイムです。

サンナンの畑の土手に、蕨が出始めました。わずかですが今日初めて収穫、それから、倉庫のそばに、タラの芽を見つたのでそれも採りました。仕事帰り、母の家により、母に見せ夕飯を共にしようと声をかけました。

昨年秋、植えた玉ねぎ、ぐんぐん育っています
ストーブの灰で蕨をゆで、私が一品作り、仕事から帰った妻が、手際良く夕飯の準備をし、もちろんタラの芽は、てんぷらにし、娘もバイトがなく、全員ではやめの夕食をゆっくりとしました。

80歳の母は、我が家から300メートルくらい離れたところで、いまだ一人でシャンと暮らしています。そのうちともに暮らすようになると思いますが、一人がいいといって、いまだ自転車で我が家までやってきます。平均週に二回くらいは、ともに夕飯をし、一日に一度はお互い顔を合わす暮らしをしています。

可能な限り、夕飯は家族全員で共にする。私に家族ができてからは、それをずっと今も続けています。それが私にとっての家族の原風景の姿なのです。まず最も身近な家族でお互いの暮らしを日々確認しながら食するゆうべが、私のささやかな幸福のひとときです。

若き日々、これまで幸運にもいろんな国々を旅することが叶いましたが、私が目にしたどの国の人々も、夕飯のひとときを家族とともに楽しそうに過ごしていました。どんなにつましい食卓ではあれ、今日一日の終わりの食を、恋人とであれ、ともかく誰か大切な人とと語り合いつつ、飲み、かつ食べる。

おしい才能の持ち主、もう十年は生きてほしかった米原真理さんも、食べることが大好きでした。我が家は、よほどのことがない限り、外食をしません。娘も母も妻も私も外食を好みません。家でゆっくりと、気兼ねなく食することが好きなのです。

以前より、私もようやく時間に余裕のもてる暮らしが可能になったので、これからは可能な限り、夕飯を、家族とともにゆったりと過ごすようにし、一日の終りのひとときを大切にしたいと考えています。

若いころは、生きるために食するような慌ただしき食生活を、余儀なくされた感無きにしも非ず、反省しきり、これからは、食べるために生きると、方向転換したく思います。つましい食卓ではあれ、大切な家族となにはともあれ、食を大切な時間にしたいと思うのです。

だから、素材も可能な限り自分で育てたものを、食卓の中心に、据えたいと思うようになってきつつあります。食にこだわるということは、生き方にもこだわるということであり、何よりも料理を作るということは、時間さえあれば実に楽しいことなのだということを徐々に私自身感じ始めています。

農と食、これから毎日の夕飯を大事に、大切な人たちとともに感謝しつつ、頂きたく思います。

2014-04-02

夕暮れ、満開の桜の下を散策しながら思う。

食べ、寝て、起き、書き、働き、読み、声を出し、考え、ボーっと散歩し、とまあ、おおざっぱに書けば、このような暮らしを、9割がた、やっているかのような按配の、この一年の私である。

以前の私だったら、これに旅が加わるのだが、長旅はしばらくはできそうもない。9月には娘がドレスデンで結婚式を挙げるので、28年ぶりヨーロッパにゆくことになるが、これは気ままな旅とはいえないけれども、しばし、別世界を遊泳するという意味では旅である。

もし私に、真の意味で最後の余暇の時間が訪れ、健康で気力があれば、どこかノートでも持って、ぶらり出かけてみたいという、旅人願望は、止みそうもない。

でもまあ、そのような願望がよしんばかなわなくとも、それはそれで構わないという境地にまで、最近はなってきた。それほどに、いろんな意味で今が充実しているということが言えるのではないかと自分では思っている。

旅をしなくても、日々を旅のような感覚、というというと大げさだが、そのような感覚で過ごしたいという、願望のようなものが、私の中に生まれてきつつあるようにおもうのである。いろんなことを、分けて感じるのではなく、眠くなったら寝て、食べたくなったら食べ、書きたくなったら書き、とまあ、流れるように、あるがまま、気ままに、すべては必要最小限にとどめ、日々の時間の中で、為せることをなす、といった。

話は変わり、昨日仕事から帰って夕飯前、いわゆる黄昏時、母と妻とメルとで、吉井川の水源地に散策がてらお花見にいった。平日の夕暮れ、私たち以外には女性のカップルがいたくらいで、他には誰もいない。静かに見事な満開の桜が、誰もいない敷地に咲き乱れていた。妻はメルとの夕方の散歩を欠かさないので、少し遠出の散歩となった。

満開の桜の木の下を歩くだけで、なんとも言えない春の香りが満ちて、五感を優しく包んだ。我々は高低差がある敷地を数十分、散策した。その間母は座って大きな桜の木の下で、我々を待っていた。

夕暮れ時、満開の桜の木の下にたたずむ小さな母の姿が、私のまぶたに焼き付いた。思わぬお花見散歩となったが、わずかな時間ではあったがとても気持ちのいい、今年はじめてのお花見となった。
開き始めた我が家のかいどう桜

もし、私が母くらいの年齢まで生きるとしたら、母のようにゆったりと満開の桜の木の下に、溶け込んでゆくかのような静かな晩年が送れたらと、あやしき満開の桜の木の下で、私は思った。桜には、やはり私の心をざわつかせてしまう、魔力のような力がある。そーっとこのまま、夜の闇に乗じて消え入りたくなるかのような。

が今しばらくは、この浮世でじたばたと汗をかきながら、おのれに与えられている生をお迎えが来るまでは全うしつつ、生きている限り桜をめでたいと、思う黄昏散策となった。






4月1日自動定植機でのネギ植え本格的に始まる。

四月一日、やはりそこはかとなく、気分一新という感じに単純な私はなってしまいます。いよいよ桜も満開、仕事に向かう途中、少し迂回して車窓からお花見をしながら、職場に向かおうかと考えています。これから桜が散るまで、何度も桜を見る楽しみが、私を春のあやしき世界へといざないます。

さて、今日から本格的に、自動定植機(バッテリーで動く)でネギを植えます。いろいろな理由で冬の間眠っていた定植機ですが、ようやく先週から植えられるようになってきたのです。冬の間は仕方がないので、わずかではあれ手で植えていたのですが、現代農業では手植えでは、永遠に人件費が出ないのです。

現代農業のあれやこれやのおかしさは、これから徐々に、書いてゆきたく思いますが、もううほとんど消費者もそのおかしさに、無感覚にならざるを得ないくらい、末期的状況になってきているように感じます。

農薬、化学肥料、そのほかの、不自然なものを使った畑で生産されるネギとは、異なるネギを作ってそれを消費者に届けようという、いまどき珍しい会社で働いている私としては、つたなきブログではあれ、なんとか一人でも意識の高い消費者に、安心して買って食べてくださるようなネギを作り、届けるにはどうしたらいいのかと考えてしまう。
完全無農薬の見事なネギ、是非食べてみてほしい

開墾から始めた畑にようやく本格的にネギが、ぐんぐん育つ季節が訪れている。2か月後は一面が、ねぎに覆われている姿を想像する。なんとも言えない、が、感傷に浸っている暇はない。

私としては、安心して食べられるネギを、きちんと育てる。そのことに専心したい。サンナンの農部門は、少人数でなんとか利潤が出る農業をめざしている。がこのご時世そのことがいかに難しいことであるのかを働くにつけ、感じるようになってきた。

今年中には何とか、軌道に乗せるべく勝負の年になるので、コンスタントにネギが出荷できるようにしなければならない。少人数できわめて良心的な会社に何故か巡り合ったのだから、悔いなくやれるだけのことはやって、微力を尽くしたいのである。

自然相手だから、思うようにはゆかないが、それでも畑に春が訪れぐんぐんネギが育ち始めた。このような採算を取るのが難しい事業に果敢に取り組み、利潤を出し、働く人が何とか生活できるようA専務や、F氏は考えている。その熱意が私にもN氏にも伝わる。

以上は、朝出勤する前に書いた。これからは日付(2日)が変わったが、珍しく真夜中書いている。ポカポカ陽気の中、終日N氏とネギを植えた。相棒とのコンビがいいからなのだと思うが、肉体的には疲れはするものの、精神的なストレスがこのサンナンの農チームにはまったくない。

ほとんどF氏の考えのもと、N氏と私の3人で、知恵を出し合ってことを進めてゆくので、限りなく風通しがいい。忌憚なく思うことを言いあい、どうしたら前に進んでゆくかを考える。決めたらひたすら実行する。

働くということは、どういうことであるのかを、サンナンで働き始めてあらためて考えている。労働の原点、あせらず、考え続けたい。