先日も書きましたが、ようやくにしておおよそ子育てにめどがつき、定年という又とない、きわめて社会的責任感が軽くなる人生の季節を迎え、コペルニクス展開に等しい、生き方の方向転換が可能かどうかを、これから見つめ実践したいと私は考えている。
それを実践すると、あまり動けなくなるので(遠方にゆくと交通費がかかるので、なるべく出かけず、でも友には会にはゆきます)交際範囲はいやでも少なくなるが、そんな私と厚誼を継続してくださる方とは、限りなく交わりを深めながら、人生の終活動へと向かいたい、とまあ、そのような心境なのでる。
私は高峰秀子さんの大ファンです |
なぜそのようなことを思うのかを、朝の短い時間のブログで書く愚は避けたいが、まずは自分自身のこれまでの過ぎし越し方で身についた、ほこり、精神の垢のようなものを根元から見つめなおし、思いついたいま、この元気なうちに、じたばたと悔いなくやっておこうと考えたからである。
実は、昨日畑で、きわめて個人的なことを考えてしまう、きっかけがあり、あらためてお金というものが、なんとまあ人間のまっとうな感覚をゆがめている社会を人間社会はつくり続けて、いるのかという素朴な疑念が(もう絶望が先に立って、ほとんど考えるのは放棄しいたいのが、正直な気持ちなのだが、残りではなく、これからの未来時間、自分に嘘はつきたくはないので)湧いてきたのである。
気の遠くなるような歴史を経て、経済、お金という、本来は人々を幸福にしてしかるべき英知のもとに、生まれてきたはずのものが、悩ましくもどうもそうはなってゆかないという現実を、こうも突きつけられると、小さき頭で愚直に考え、愚直に実践してみるしか、私には他に方法が思いつかないのである。
他にも方法があるのなら、そのような似たような思いを共有される方とは限りなく連帯して、今後の人生を歩みたいものだ。はやり言葉でのように、今しいかないではないか。
ということで、食費以外は(食はすべての基本楽しみ、植えられるものは植える)可能な限り、見つめなおしている。すると限りなくこの一年、生活がシンプルになり、精神も身体も調子がいいのである。だから、昨日も書いたがおたおたせずに、夕陽を浴びて(こんな贅沢家でもできる)、読書しながらお茶一杯、ゆったり過ごすのである。考えるのにお金はいらない。
歴史下の、埋もれた無名の人々の困難な歩みを知るにつけ、なんとまあ極楽とんぼなな人生をこれまで歩めた、おのれの人生の幸運を、私は知った。無知は恐ろしい。恐怖につけこんで戦争を起こす、社会不安をあおる。
限りなく勇気をもった先人たちがいたからこそ、今のかろうじてではあれ、平和、穏やかな暮らしが営まれているのだ。そのことを決して私個人忘れてはならない。そのことに思いいをはせるとき、取り立ててなにはなくとも、すべてあるのだという、錯覚にも似た幸福感に包まれる。
両親、祖父母の生き方が、私の中にはいまだ焼き付いている、何も持たず、あのように生きてゆけばいい。
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