コーヒ―を飲みながらの、夜明けのひとときは、まさにこの年齢なればこそ感知する、至福のひとときと、言うほかはない。目線の先のささやかな庭には、小さき草や花、樹木が春の雨に打たれている。緑と、水のしっとり感、静けさがなんとも言えない。
つくずく、日本という国、風土に生まれてきた幸せを、私は感じる。この雨でおそらく桜は一気に開花するだろう。春はあやしくも、いまだ私の心をかき乱す、波乱の季節でもある。ぶらり名も知らぬ土地に出向き、散策したくなったりするのは、おそらく意識がしっかりしていて、歩ける間はやみそうもない。
さて、帯津良一というお医者様が、(現在76歳)いらっしゃいます。数冊しか読んでいないのですが、この方の死生観にほとんど同意するといっていい気が、現在の私はします。長きにわたって五十鈴川だよりを読んでくださっている方は、何とはなしにうなずいてくださるかもし入れません。
畑の上にいつも雲が浮かんでいてつながっています |
どういうことが書いてあるかは、野暮な感じがしますので、ブログでは書きません。ただお医者様であるのに、医者嫌いを任じていらっしゃるところが、とても信頼できます。
昨夜、夜中に眼が覚めたので、この方の本を読んでいたら、藤原新也さんや、椎名誠さんの本の言葉の引用が出てきて、へーっ、帯津先生は、私の好きな方々の本も読んでいるのだと、ますます人柄に好感を持ってしまいました。
先生は、お酒が大好きで、人生のラストシーンを日々イメージトレーニングしているのですが、それが人間らしく、生で、ますます好感を持つというわけです。自然体、あるがまま、その人らしい生き方の末に、ラストシーンがあるのだと私も思います。
先生は、映画も大好きで、ラストシーンの優れたフィルムを寝る前、30分DVDで、見られるそうです。私もラストシーンが眼にやきつく映画が好きです。禁じられた遊びのラストシーンなんか、胸が締め付けられた記憶がよみがえり、見た映画館もいまだ思いだせるのは、幸せなことだと思います。
話を戻して、人生のラストに関しての様々な、悔いなく生きるがための覚悟が、さらりと簡潔に記されています。誰にでも読める文章の中身を、我がこととして受け止め、日々実践することは、なかなかに難しきことだとは思います。
が、死の本番のラストシーンは、先生も書いていますが、一回こっきり。映画のようにはゆきません。だからこそ先生は日々懸命に働き、太極拳をし、お酒でわが身を癒します。毎日死と向かい合います。そこに秘められた、念い、覚悟が、すがすがしいのです。
まだ62歳になったばかりの私ですが、いいタイミングでいい本に巡り合いました。読みながら何度もうなずきました。生きつつ死に、死につつ生きる。そして安心し、真の意味での大いなる世界へ還ってゆく。
すべての生き物は、大いなるラストシーンに還ってゆく、そこを見据えて日々を送る覚悟を、還暦を過ぎた私個人は、持ちたく思います。御幣を恐れずに書けば、先生も書かれているように、家族や社会に迷惑をかけて、だらだらと延命したくはないとの思いです。
何かの役に立つ間は、しっかりと動けなくなるまで働きたいたいいとの思いは、何か強まってきました。そのために本を読む時間や、これまでエネルギーを費やしてきた、イベントの企画なんかができなくなっても構わないというくらいに、今は畑で過ごす時間が愉しいのです。
ことほど左様に人間は変化します。一つ一つのことにしっかり取り組んでいると、次なるステージがおのずと開けてくる、そんな気がしています。
ですが、企画をしないということではなく、機が熟し、何か突き動かすものが、裡から吹きあがってきたら、やれる間はいくつになっても企画したいものです。そのための準備は、ささやかに怠りなく磨いておかねばと、思っています。
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