ページ

2014-03-21

春分の日の朝に思わずにはいられない。

春を告げる我が家のラッパ水仙
理系ではなく、経済のことにもとんと疎く、1970年18歳で世の中に出て、母が言っていたように、生き馬の目を抜くような世間を、脳天気を絵にかいたような私自身の性格を思う時に、よくもまあ、生き延びてきたものだと、振り返ると、しばしの感慨にとらわれる。

物事を深く分析する力も、何ももち合わせてはいない、きわめてごく普通の自分なりの感覚でかろうじてこの年を迎えている。

ただ単に運が良かったことと、可能な限りいやなことには、近づかなかったからこそ、生き延びることができた、のではないかというのが、私の謙虚な結論である。

なぜこのような性格になったのかを、静かに考えてみるときに、今思うことは、やはり小さき時に見続けた両親の姿、また言われた言葉が私の体にしみ込んでいるというそのことに尽きると思う。

それとやはり、数は少ないものの、妻をはじめとする、友人たちに恵まれたこと。春分の日の朝、何やらまじめな書き出しだが、気の遠くなるような国家予算が成立した。落ち着いて書く時間もないのだが、ため息くらいのことは書かずにはいられない。

私ごときが何も理解もしていないのに、何やら書かずにはいられないのは、先ほど藤原新也さんのトークを読んだせいもあるのだが、ひたひたとなにやら情報統制的な時代がやってきつつあり、国民は、戦前と同じ知らず知らずのうちに、いとつの方向にからめとられてゆくような、いわゆるいやな感じの、気持ちの悪い時代が訪れようとしているのではないかと、穏やかな春目前、思ってしまう。

今の時代の、まことしやかな真実も、100年後に知らされても、私はこの世にはいない。だからこそ生きている今にこそ、いろんなことを気づいたときに、考える癖のようなものを身につけてゆく、努力をすることが、大人になるということではないかという気がする。

知らなかった、だまされたというのは、後でつじつま合わせ、何とでもいうことができる。大人になるというのは、生半可な努力ではなしえないのだということを、この年になって思い知る朴念仁の私である。

それにしても、こうもいろんな目くらまし、多分野、軽薄、飽情報満載時代、何いを信じていいのかの選択は、誠に難しい。だから私の場合、これまっで生きてきた中でこの人はと思う、人物の考え方何かを参考にしたりしながら学び、、自分なりによたよたとではあれ、考え続ける力を身につけたいと思っていて、かけがえのない表現の自由を、オーバーではなく死守したい。

こうやって、日々のささやきブログで、心身の調整を図らないと、私ごときでさえ、なんだか危ういなあ、と思ってしまうのだから。その点戦前と違って、インターネット時代は、心ある方たちの情報を自分の感覚を信じて探して行けるので、実にありがたい。

NHKはじめ、毒にも薬にもならないようなニュース番組ではなく、おかしいと思うことに底辺感覚で切り込んで、自分の目で見、考えたことをきちんと報道してくれている記者を、見つける力を、視聴者の一人としての私も養わないと、とんでもないことになる。

表面の看板や、ブランド、見てくれに騙されてはいけない。見えないものを見つける感覚や勇気をおじさんはもとより、何よりもこれからの世代が身につけないと、まずい。そのためにはどうしたらいいのか、自分で考えるよりほか、ない。

0 件のコメント:

コメントを投稿