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2014-01-12

次女の成人式の朝に思う

今日は下の娘の成人式です。私は自分の成人式には出ていません、その頃の自分のことを思い返すと、さあ、これからどのように生きていったらいいのか、日々不安や、悩みを抱えながらも、ひたすら青春時代にしかやれない、お恥ずかしくも、今考えると懐かしい日々を過ごしていたという気がします。

以前も書いたかと思いますが、あの当時の日々に帰りたいかと問われたならば、私の答えはノーです。なんというのでしょう、やはり自分はあの当時の時代の渦のようなものに巻きこまれながら生きていたと思いますし、今の言葉でいえば、フリーターの走りのような、先行きの不確かな、安定路線には程遠い生き方を選択した自分の浅はかさに、いくばくかの悔恨の情を持つからです。

がしかし、その都度の悩んだ末の選択でしたから、ほとんどは後悔していません。帰りきぬ青春、武者ぶるいするほどの無知、未知との遭遇の連続あればこそ、今の私が存在するのですから。

あらゆるヒトや芸術や文化、森羅万象との出会いの集積の上に現在の己の姿があると思いますが、この年になり振り返ると、最も自分に大きな影響を与えたのは、やはり両親の姿なのだということが分かります。

(晩年、両親が過ごしていた世界が、私の目指すこれからの世界なのだという気がしてきています)

背伸びできるときにしか、背伸びはできないのだと思います。内なる不安をいっぱい抱えながらも、若い時だからこそやれた、若い時にしかできないことを、やはりいささか無謀であったとは思うものの、やれたという意味において、私は全く後悔していません。

親になり、娘が成人する。やはり親ばかと言われようとも、なにがしかの個人的な思いはあります。母親とは異なり、父親としていかほどのことが娘にしてやれたのかは覚束ありません。

ただ、なんとか成人までこのような時代に育ってくれたことに関して、私の方からありがとう、おめでとうと言う感じです。生きて、己の命を泳ぐということは、まさにたいへんなことではあります。でも、すべての命がそうやって生きているのですから、その命を可能な限り、自ら輝かしてほしいと、願わずにはいられません。

私自身、二人の娘たちと出会い、どれほど助けられてきたか分かりません。命という不思議は、今もって謎めいて、ときめきます。

キザを承知でいえば、ある時代、生まれおちたところから出発し、人生いかに命を輝かすことが可能かという、一回生の旅とも言えるかもしれません。

娘にはこれから出会う様々な困難を、ヤナギのようにやり過ごし、逃げず歩んでほしいと願わずには居られません。そしてその言葉は、自分自身もこの世の旅を終えるまで、唱えなければならないと、考えています。

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