他愛もないことではあれ、長いこと書き続けると、これは本当に自分が書いたのか、と思うことが、たまにだがある。
昨日もそうだが、書いているうちに無意識に何かが文章を紡いでくれるような感覚が生成されてくるのである。よそ行き感覚で、今朝のの感覚を確認するという思いでつづっているが、何とはなしに書き終えると、素直にやはり嬉しく、オーバーに言えば、今日もまた新鮮に生きられるような感覚が取り戻せる気がするのだ。
何日も書かない日もある。内なる感覚が満たされないと、私は文章が書けない。何よりも書くという行為は、自分との内なる対話となってきつつある。書くことで生きている今が、世界が、より新鮮に感じらてるように思える。
そしてそれは、五十鈴川だよりになってから、より顕著になってきている。書けない日は、書く時間ではなく、読む時間になっていることが多い。書くためには、読まなくてはいけない。
読むという行為なくして、書くという行為は私の場合成立しない。限られた現世時間に、膨大な他者の、素晴らしい遺された文章に触れるということは、日々を生きなおす意味で、ご飯をたべるように肝要なことである。
時代の表層的な流行や、趨勢に流されることなく、危うい自分という存在を、懐疑的にしっかりと見つめるという時間を、一日のうちにわずかではあれ持ち続ける意志力を持たないと、私のように流されやすい弱い存在は、すぐに流されてしまう。
あらゆる情報があふれる時代、本当に自分にとって生きてゆくために必要な、根源的な情報を、見極めるための思考訓練をしないと、いけないという感覚が、とくに3・11以後私に起きている。
私のなかの意識のパラダイムがよりくっきり変わってきたのである。この奇跡の惑星を破壊するほどの経済発展幻想に、私は数十年前おさらばして東京から岡山に移住した。(原子力事故は、やはり起きた)。パンデミックな状況になりそうなところから一日でも離れて、娘を育てたいと思ったのである。
はなはだ個人的に、家族とともにささやかな幸福を求める覚悟を決、あれから22年が過ぎました。私の決断は、今のところ幸を得ましたが、世の中はますます巧妙複雑魑魅魍魎化し、人類的意識のカオス化は進んでいるという気がしています。世界はかろうじて続いているというのが、私の偽らざる認識である。
話は変わります、先日新聞に田中投手のヤンキースとの高額契約の記事の隣に、時給400円に満たない仕事を余儀なくされていた(詳しくは読んでいないのですが)労働者の記事が掲載されていました。この世のなかの摩訶不思議な、構造、仕組みはな辺にあるのか。
不条理きわまるおかしな、過労死するまで働(あるいは働く)かされるおかしな仕組みに対して、声をきちんとあげる大人の少なさは、あまりにもさみしすぎると言わざるをえない。命のあってこその世界、人生。ハイテク無人機で罪のない方々まで巻き込んでヒトがヒトを殺すなんてニュースに対して何も胸の内に感じないのなら、あまりの想像力の欠如に、、、空しさが。(自分はそうはなりたくありません)、自分が殺されるということを、想像する力のあまりの痛みのなさに。
この一年、一区切り、私はかなりのモノを整理し、生きなおすために、一区切り捨てました。(どうしても捨てられない手紙やポスターなどは遺し)、捨てる、何かを絶たないと、やはり新しい出会いも生まれない。捨てたからこそ、農の仕事(土に)に出会えたのだと思っています。
生きているから世界は存在する。自然には全く無駄がなく静かに、眼の前に存在しています。限りなくシンプルに、自然の声に耳をそばだてる訓練をしたいと思う、私です。夜が明けてきました。
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