50代の半ばころからだと思うが、私は正座したり胡坐をかいたりするような生活をつとめて増やすような生活を心懸けている。ご飯は椅子だが、一人の時は座って食することもある。
高校生までは、家で家族そろって座って食事をしていた。年とともに、幼少のころ過ごしていた暮らしに、限りなく原点帰りというのか、回帰というのか、そういうライフスタイルに私の場合、なりつつある。
いつかも書いたが、時折父が来ていた丹前に夕飯前、着変えたりする。何かと洋服と比べると不便、動きにくくなるという弱点はあるが、その不便さがまた、心地いいということも、だんだんと年を重ねてくると感じられてきた。
何よりも、(今も正座して書いている)重心が低くなるので、精神が安定するのである。足が痛くなると、胡坐にし、へそを突き出すようにして、なるべく背筋を伸ばすように意識する。背中が俗に硬くなってきているのだが、立っているよりも、座った方が背中を身近に感じることができる。
両肘を机に立てたりして、しばし思案することもできる。もちろん習字は座ってである。つくずく思う、我々の暮らしは、重心が高くなり続け、生活に落ち着きがなくなってきたことが分かる。
気付いたところから少しずつライフスタイルを変えたいと、還暦を過ぎてからことさらに思うようになってきつつある。ほんのわずかな細部のこまごまとしたことを、きちんと意識してやれるようになりたいと思うのだ。
だってようやくやれる心の余裕のようなものが私の中に生まれつつあるからだ。その中でこの1年私が意識的に楽しんでやっているのが、前にも書いたが、雑巾がけをするということがある。毎日ではないが、休日は必ずやっている。
隅々にそっとたまっている、綿ぼこりを拭き取るのは、もはや快感になりつつある。身体が重く、気が進まない時も、やっていると自然に面白くなる。そういう意味では、私は自分で自分をあまり信用していない。
自分で自分を気分よくさせてゆく、のせてゆく工夫のようなことが肝要なのだと、思いい知る。わずか30分もやると、空間がさっぱりと引き締まり、自分自身の精神も軽くなり、いろんなことがスムースに流れだす。
帰ってきた妻が、部屋がきれいだととても喜ぶ。トレーニングジムに通うヒトはとても増えているらしいが、掃除は私の体のトレーニングだけではなく、心のトレーニングでもある。もちろんお金も要らない。
体操も、声を出すことも自分の体と、ともあれ遊んでみる。そのことの大事を年とともに感じ始めている。当たり前であることがいかに当たり前ではなく、複雑な心と体の塩梅いで成り立っているのかを思い知るのだ。
体がすっきり気持ちいいと、当たり前だが心も気持ちいい。そういう具合に自分で日々の暮らしをできるだけお金に頼らず、整えてゆくことを心懸けたい。可能な限り他者の手を煩わせることなく、母のようにかくありたいものだ。
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