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2025-10-04

二冊め、森永卓郎さんの[身辺整理という]本を読みました。そして想う。

 今日は猪風来美術館にゆく予定であったのだが、雨で作業が取り止めになったので、いつもの休日のように、静かな時間を過ごしている。

今年一月に、おなくなりになった経済アナリストの森永卓郎さんの官僚生態図鑑という本について、先日五十鈴川だよりに打ったのだが、続いて、森永さんが余命宣告されたのちに書かれた[身辺整理]という本を、先ほど読み終えた。

見事な人生、脱帽する


読み終えたばかりなのだが、降ってわいた時間があるのでなにがしか綴りたい。余命宣告をされたことがない私としては、まだまだやりたいことがあり、幸いにして頗る健康そのものなので、私事として、きちんと受け止めるには至難なのだが、打つ。

私は、これまで読書の傾向があまりにも偏り過ぎていたという反省が、古稀を過ぎて俄に強くなってきていたお陰で、森永さんのご本も手にすることができたことを、素直に喜んでいる。

思い込みや、知らぬうちに育まれている苦手意識、偏見が私をして狭い世界に充足させがちになってきていた。

古稀を過ぎたのだ、もっと自由に本に触れようと。だから努めて意見の異なる生き方や、異なる環境を生きた思考の持ち主の本も、意識的に読むようには心かけている。

おそらくそういう心掛けがなかったら、森永卓郎さんの本も手にしなかったのではないかという気がする。そして思う、手にして良かった。私とは全く異なる人生である。人は生まれ落ちた時代と環境のなかで、自分の人生を生き物として、どんなに理不尽であれ、非情な摂理の中を泳いでゆくしかないということを、知らされる本である。

私とは、あまりにも異なる世界を歩まれた方なのだという認識しかもてない、とはいえ一人の人間の、私には想像だにできない世界を必死で生き抜き、結果見事に全うされて、このようなご本を遺された、毅然とした見事な生き方に打たれた。

ちょっと話が逸れる。世は100年時代、総活躍時代などという標語が飛び交うが、私に言わせれば、 虚しい。身近な周りを見渡しても、見るからに幸せそうに生活しているご老人にはそう私はお目にかかっていない。ハッキリと五十鈴川だよりに打っておく、長生きすれば幸せなのか。

まったく私はそうは思わない。心からやりたいことがない人生は虚しい。幸いにして、まだまだやりたいことが私にはある。私は今しばらく生きねばとは、思ってはいる。だが、一寸先は神様にもわからない。だから、無目標でただ漫然と長生き、社会のお荷物的人生だけは御免である。

ボケると、このようなことは打てなくなるので、今のうちにキチンと打っておく。それにしても、 森永さんの余命宣告を受けてからの、あまりにものエネルギッシュなお仕事ぶりには脱帽する。死は怖くないと森永卓郎さんはおっしゃっている。あっぱれというしかない。

このような境地になれるのは、キチンと人生を生ききったもののみにしか、けっして訪れない。そのことは私にも分かるような気がする。臆面もなく打つ、私もまた死を受け入れるための生き方をせねばと。

我が両親も潔かった。あのように生きればいいのだという身近なお手本がある。引き上げ者としての両親を私は尊敬している。思春期から自己嫌悪、不甲斐ない自分をもてあましつつ、戦いつつなんとかいまを生きているが、多分一生頑張っても、あの両親にはかなわない。見習いたいと、ますます思う、この頃である。

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