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2025-09-30

[続ける力],千住真理子著を読み、打たれた今朝の五十鈴川だより。

 昨日、千住真理子さんの、続ける力、というストレートなタイトルの本を読んだ。お名前は知っていたし、ラジオでお声も聴いたことはある。だが、実際に演奏を聴いたことはない。だが先週土曜日図書館で、ご本のタイトルが目に入った瞬間すぐに手に取った。3ページめに、この本を手に取ったあなたへ、というちょっと大きめな言葉が記されていて、続く言葉が[人生はロングレースだよ]というお父さんの言葉が冒頭に続いている。

生で聴きたい。

あまんきみこさんの絵本を探しにいったのだが、よもやまさか、千住真理子さんの本にも恵まれるとは。なぜこの本のタイトル、継続する力に吸い込まれたのかは、私自身が、幼少の頃から、今で言う発達障害とでもいうしかないほどに、落ち着きがなく、多動性であったことに起因している。

何事にも飽きっぽく(それは決して消えてはいない)、集中力のない、自分という存在との、オーバーに言えば、それとの戦いみたいな人生を、18歳で世の中に出てから送ってきたからだ、と思う。

生活をするだけでエネルギーを消費し、夢も希望もない蓄積したの実感のない泥沼のような貧しい青年の暮らし。この先を想うと、暗澹とする不安しかない焦燥坩堝時代。

運が良かったと言うしかない。不確かで、日々変容する自分との戦いの果てに、なんとかこの年齢までたどり着いている、というのが正直な気持ちである。

おもえばあれから55年の年月が流れ、いろんな方との廻り合いに助けられた。そして今、ようやく多動性発達障害がようやく収まりつつある自分を感じている。ただた単に年を重ね老人になったからということでは決してない。

臆面もなく打つ。振り返ると、不甲斐ない自分を見つめなおす勇気と課題を、綱わたりのように、ささやかに持続したから、いまをがあると思える。自己嫌悪になるほどの不甲斐ない自分との戦い(いまも続いている)から逃げたとしたら、還暦を過ぎて、五十鈴川だよりを打つなんてことは決してありえなかったとおもう。

18歳で上京してからの4年間、22歳になる前(まだ21歳だったと思う)英国に脱出する勇気を思いつかなかったら、その後の私の人生はどのように変化したのか皆目想像だにできない。実現のため、当時付き合っていた女性にこれから資金を貯めると告げた。そこから希望の光が差し始めたのであるる。

二人で3年以上ひたすらあれやこれやのアルバイトをして、一年間イギリスに滞在する資金を貯め、結果実現して、最初の成功体験(目標に向かって継続すると願いが叶うという)となり以後の人生の支えになっている。

話を戻す。千住真理子さんの継続する力は、二歳半でヴァイオリンを手にして、以来一筋の50年である。まさにヴァイオリンの神様に選ばれしヒトなのである。好きであるということに導かれた、あまりにも過酷な運命の道。しかし運命から逃げない。受け入れる。その健気さ、凛々しさ、潔さは受両親から受け継いだ天性の賜物である。

理想の音を求めてアスリートのように体を鍛える。ヴァイオリニストは過酷極まる肉体労働であると、初めて知った。二十歳で一度演奏家をやめる。挫折しても好きだからまたもや起き上がる。試行錯誤、真理子さんの(と呼びたくなる)挫折克服の、自分で見つけた方法が簡潔で的確に真理子さん文体で書かれている。

ある日スイスから携帯の電話がなる。しまわれたままの、誰も弾いていない、300年に創られたストラディヴァリウス、ヴァランティ、とのまさに運命的な出会い。出会いの一文が簡潔ですばらしい。弾かれていないストラディヴァリウス、ヴァランティは簡単には音がでない。名器ヴァランティとの格闘が始まる。目頭があつくなった。(何ヵ所も)

ある種選ばれし天才は、誰も聴いたこともないヴァランティの音色を奏でたく、格闘を続ける。努力自分自身と戦っておられ、そのあまりの純粋さに言葉を失う。いや天才だからこそあれほどの努力が出来るのだとも思える。楽譜にびっちりと書かれている文字をみると畏敬の念しかない。すごいの一言しかない。

真理子さんのご本は、分かりやすく凡人の私にも充分に面白く、しかも誰でもやれると思えるほどに、分かりやすく説得力があり、読みやすい。素直によめる力さえあれば、こと音楽の世界だけではなく万人に届く、と私は思う。身近な世界のワンダーを感じる感性をお持ちのヒトであれば。

何事の困難も、継続することのなかでしか、未知の扉は開いてくれない。扉を開く勇気のある人間だけにしか、挑んだものだけにしか見えない、感知できない景色、聴こえない音があるのだ、と知る。この年でこのような本に巡り会え、五十鈴川だよりを打てる事に感謝する。今年見つけたもっとも素敵な本である。

PS 8月上京した際、猛暑の中、男の孫二人と父二人、私の5人で野外プールにゆきその時、数年ぶり、何百メートルを休み休み泳いだのだが、意外にまだ泳げる自分がいた。その時今年の冬はプールに行こうと五十鈴川だよりに書いた記憶がある。

千住真理子さんはヴァイオリンを弾くための体力維持のために、行ける時間がある時には、どんなに疲れているときでも、這うようにして、自分を騙して出掛けるのだという。ジムまで行ってみる。着いたらとにかく着かえる。着かえたら水にはいると、チビリチビリ自分を騙してゆく。

昨日午後3時半から休み休み一時間、泳いだ。真理子さんのご本に刺激をうけ、予定の冬よりも早くゆくことになってしまった。さあ、継続出来るか。意欲がなえそうになったら、真理子さんのご本が背中をおしてくれる。まだ泳げるのだから。(取り敢えず週に一二度、泳ぐことにした)

1 件のコメント:

  1. 一万六千年にも渡り我々のご先祖の縄文の人々は争いもなく平和な社会を築いていたことが、欧米の学者や知識人を中心に現在静かに広がりつつあります。この日も遥々オーストラリアから辺鄙な山奥の廃校あとの猪風来美術館を訪れ熱心に見学されていました。縄文の人々は自然や宇宙と繋がりそのメッセージを縄文土器の文様として刻み込んだように思います。縄文土器の品格熱量芸術性の高さは他に類を見ません。

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