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2025-09-19

ようやっと待ち焦がれた秋がきた。ただただ嬉しい五十鈴川だより。

 暑さ寒さも彼岸までという言葉が虚しくおもえるほどの気候ではあるものの、萩の花がさき、コオロギが草を刈っているとそこかしこから姿を現す。天が高く高く感じられ、青い空のもと、いくばくか涼しく感じられるなかでの、早朝の草刈りは、なんとも言えず気持ちがいい。

あざやかな、実りただき、秋がきた。

だあれもいない広い場所で、ただ一人エンジンの音を響かせ草を刈る。40分やったら、少し息を整え、その繰り返し、おおよそ4ラウンドやれば、かなりのフィールドの草が刈れる。早春から晩秋まで草は休みなく伸びつづける。

ときに、うんざりするほどの草の生命力に圧倒される。正直今年の暑さには、もういい加減にうんざりしている。だが、なんとか乗りこえることができた悦びは、たとえようもない。

有難い事実として、記録として打っておくが、この酷暑の夏、我が体は、どこかで1日1日を生き延びることこそが、楽しみで働いていたのである。

もっと敷衍するなら、この年齢での限界に敢えて、挑むかのような塩梅で日々、暮らしていた、と綴るのは、ちょっカッコつけすぎか。

年齢を暫し忘れ、ただ草刈りに暫し没頭する。没頭することの、没頭できることの老いのからだの摩訶不思議を、この夏ほど痛み入りますと言ったあ塩梅で感じたことの、有り難さを五十鈴川だよりに打っておく。

もうこの年齢になると、ただ老いゆく存在を、一日でも慈しみたいのである。結果、他者との時間も慈しみたくなる。従って今日共に働いたkさんとの束の間のふれあいなども、いかんともしがたく、なにやらそこはなくうれしいのである。

Kさんとは週に二回しか、ともに働かない。kさんは口数が少ない。もう丸3年ともに働いている。誠実でまことにもって信頼できる。今どき稀なご仁であり、歩んできた道のりは全くといっていいほどに異なるのに、何故かの私の企画もカンパも含め、支援してくださる人である。

今日も、お家で収穫したたくさんのピーマンや大きなシシトウをお裾分けに持ってきてくださった。つくづく思う。ての届く範囲での人間としての日々の生活、をこそ大事に生きていきたい、いきてゆかねばとの思いにわたしはかられる。

いきなり話は変わる。明日は、猪風来さんのところに、ゆく予定である。行って何をするかというと、少し草を刈るつもりである。kさんに頂いたピーマンもよし子さんにお裾分けしたい。

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