ちょっと体がだるい。だけれども五十鈴川だよりを打つ元気はある。明日は猪風来美術館で作業とミーティングがあるので、五十鈴川だよりを打ってたまった夏の疲れが出ているのだろうから、午後はゆっくりと休むことにする。
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自然は手強い、修行は一生なり |
朝食後、約2時間以上菜園場の草取りをして、戻ってきて寸暇五十鈴川だよりタイム。バイト先のさつまいも畑が、約一月ほっといたら、あまりに雑草に覆われていたので、鍬で少しうがして、手で抜いたのである。
だるいのでちょっと億劫ではあったのが、今日を逃すとまた伸びる。自分の菜園場、自分がやらないと誰もやってはくれない。単調に体を動かす。
根にまとわりついている土をふるい、草をバケツに入れ、一杯になったら、農業用の小さな車に積む。最初は大変ではあったが、だるいのも忘れて、はかどり始め、気分よく菜園場を後にした。
もうこの年齢になると、秋の空のもと、土に触れて香りを嗅ぎ、草と戯れていられる休日の時間が甚だ嬉しい。小さな菜園場がバイト先にあるなんて、なんとありがたいことかと、今朝も私は思った。私以外誰もいない。ただただ草を抜く。老いた我が体が喜んでいるのが分かる。
ささやかしごく、このような体の喜びを見つけられたことを、能天気に臆面もなく打てることが嬉しい。子供が夢中で虫とりをするように、私は草を抜く。正味2時間位が今の私にはちょうどいい。
養老孟司先生を、私は勝手に尊敬している。都市化(先生の言葉では脳化)された中での生活で、体が置き去りにされていることの危惧を、数十年もまえからお書きになっている。脳で考え、体を使って考えないことのバランスの悪さを、再三鋭く指摘しておられる。自然界は人間の思い道理には絶対にゆかない。どこかで自然と折り合いをつけないとまずい。畏敬の念を忘れたらとんでもないことになる。
老いて草を抜きながら、養老先生の言葉を反芻し、噛み締める。ときにこのような言葉を。人間の財産とは、結局自分の体に身に付けたものだけが全てであると。全財産、我が体は自然に還る。それまで体を動かし、菜園場でギリギリまで遊びたい。。
生老病死は摂理、自然である。私はやがて土に還る。宇宙の塵となる。都市化した生活をしてきた私は現代人である。だから死をどこかで怖れる。だが土に触れていると、気持ちが穏やかになる。土の力は偉大なものがある。土は生と死そのものである、そのような想いもしなかったことを感じる。土に触れなかったら決して生まれない感情である。
最近、私は現世的な執着や欲望がとんと(消えてはいないが)弱くなっている自覚がある。限りなく、一日の過ごし方が単調、シンプルになってきている。朝日とともに起き、体を動かし、暗くなったら、体を休める。もうほとんど満たされている。
お金や物に、執着しない。存在していることを、日々寿、ことほぐ。養老先生は覚悟を忘れて、永遠に満たされない欲望消費現代人に警鐘を、虫の視点で説く。然り、府に落ちる。自然を受け入れ、目を閉じる覚悟を日々養いたい。
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