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2022-07-10

安部元総理が暗殺された二日後、参議院選挙の朝に想う。

 一週間ぶりの五十鈴川だよりである。五十鈴川だよりをうち始めた当初、特に60代前半は、3日も打たないと、何やらサボタージュ感があったのだが、この春、10年ぶりの全くのオリジナル企画を、多くの方の(目に見えないご支援含め)共感力を得て実現することができてから、以前にもまして、枯れてきたというか(いい意味で私はとらえている)もう興趣がわいてくることしかせず、あくまで自然体で自分の体が喜ぶことに重きをおいて、生活している。

もう何回も打っているが、人生の遊行季を生きている私としては、これからの日々の時間を、可能な限り穏やかに静かに生活しながら、どうしても体が内側から発するおもいがたまったときにのみ、なにかを企画したり、アクションをおこしたりするにとどめ、ひたすらバカの一つ覚え、でくの坊的に生きてゆきたいのである。

このところ絵本を音読している

話を変える。今日は参議院選挙の日である。一昨日、安部元総理が白昼凶弾に倒れ、日本はもとより世界中がその報道で溢れその突然の死を悼んだ。後年歴史的な一日として記録され、改めてこの日を境になにがしかの大きな転換が加速され、起点の出来事になる事件ではないかという気がしている。

そしていきなりというしかない不慮の出来事にまたしても一瞬先何が起きるのか、がわからないという当たり前のことを、またもや思い知らされている。

うちながらもどこか言葉がむなしく、年寄りのくりごとになるので多弁は控えたいが、人間という存在の闇の深さをあらためて喚起させる出来事である。(一見普通の人間が抱え込んでる闇の深さのはかりしれなさ)得たいの知れない、言葉化しえない、現代社会が嫌でも抱え込んでしまっているやり場のない閉塞感が、このような白昼のあっけにとられるという犯罪事件となって顕れたとしたら、現代に生きている初老凡夫の私にとっても心中穏やかではいられない。いまだどこかがざわついている。

民主主義の危機があちらこちらで散見されるが、五十鈴川だよりを打つものとして想うことは、素手で自分の体で表現し訴えることをやめ、地道にヒトの心に届くような行為もせず、安易というしかない子供じみた発想の域をでない、刃物や爆弾銃などの犯罪が世界中で多発し、そして一見平和な国であると、私を含めたかなりの日本人が思い込んでいる我が国で、一国の元総理がかくも安易に暗殺された事実に、どこか私は驚愕を覚える。

青天の霹靂という一言ではすまされない、不気味な時代がすでにヒタヒタと迫ってきている事の恐ろしさを無意識にもどこかで感じずにはいられない。そのようなことを感じるのは私だけではあるまい。いったんタガガ外れるとなしくずし的になってゆきやすい人間心理の怖さを、私は警戒する。

大人は考え忍耐して、この国の行く末、未来をのかたち、どのような社会を子供や孫たちに遺し伝えたいのかを、やはり月並みだが一人一人が胸に手をあて思考し、選挙に行き一票を投じる他はない、というのが私の思いである。

安易な武器に頼った、ヒーロー気取りはフィクションの世界だけにとどめてほしい。時間がかかっても、ゆっくり確実にいきること。途方にくれながらも、先人たちが流した気の遠くなる血の量の上になんとか築き上げ、たどり着いた民主主義国日本。平和は必死で守らないと足元から崩れてゆく。亡くなられた城山三郎氏がおっしゃっておられたが、先の戦争に負けて一番よかったことは民主主義をてにいれたということだと。日本という国での選挙、繰り返すが一人一人の大人が考え投票に行くしかない。


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