佐藤愛子さんという作家がおられる。パラパラとエッセイをひもといたことがあるくらいで、作品もきちんと読んだことがない私である。だが、歯に衣着せぬ、大胆でおおらかで底が抜けたかのような、まさに天真爛漫という他はないお人柄と、次々と無理難題に見舞われる人生の苦難を真っ正面勝負、まさにあっけらかんと乗り越えてこられた、その胆力に私は脱帽する。
1923年生まれとあるから、まもなく100才になられる。くどくど打つことは控えるが、佐藤さんは88才で、最後の小説を書かれ、92才で最後のエッセイを書かれている。最後のエッセイのタイトルは【92歳、何がめでたいである】、この本を昨日大笑いしながら一気に読み終えた。
ジニアという花 |
そして想う。爽快清々しいというのは、こういう方のことなのであると、私はつくづく感じ入った次第なのである。目はかすみ、耳は衰え、まさに戦いすんで日は暮れて、体は満身創痍で、92歳のご年齢で、かのようなエッセイを書かれる品格に私は心底驚愕している。とてもではないが私は佐藤さん(と呼ばせてください)に勇気をいただく。爪の垢でもかくありたく学びたい、という気持ちが五十鈴川だよりを打たせる。
古希になった私だが、佐藤さんのごほんを読むと、まだまだ足元にも及ばないと深く頭を垂れずにはいられない。あまりにも急激な時代の変化に、追い付いていかない体と心の不具合を、こうもあっけらかんと、ユーモアたっぷりと読者サービスしてくださる、懐の深さに、私は何度も脱帽した。
私にとっては初めての、大きな手術を乗り越え、古希を迎えることができて以後、交遊関係 含め人生観他、あらゆることの見直しを、否応なくすることに必然的になり、コロナの感染が再び広がる今も、それはずっと続いている。92歳であれほど飾らない自然体で、実感のこもったエッセイをかけることの人間性
私は心底脱帽し、多いに共感し、行間から匂いたつ昭和の香りが、私の個人的記憶とシンクロし、つまりは世代を越えて一方的に同士と出会えたかのような気になってしまったのである。普通の偉大さとでも呼ぶしかない、あまりにものスケールの違う昭和の庶民の心意気のシーラカンス的生き方の、お手本を見たのである。でくの坊はひたすら憧れる。カッコいいとしかいいようがない。
僭越至極ではあるが、この佐藤愛子さんの時代の目まぐるしさに動じない、慶賀すべき普通感覚に打たれる。その事をきちんと今朝はただ五十鈴川だよりに打っておきたい。
佐藤さんがお書きになっておられるように、この世はなんと酷薄非情なグロバタリアンどもが暗躍闊歩する鵺のような気持ちの悪い世の中へと変貌してゆくことか、その世の中を右往左往コケツマロビツ必死でいきるわたしたち。わかってはいてもどうにもならないもどかしさ、だが佐藤さんのような揺るがない覚悟があれば、動ずることはないのだ。この世はガリガリもうじゃだけではない。そっとけなげに見えないところで、花は咲いているのである。
佐藤愛子さんという作家の本をきちんと読まねばとおもう。人間存在のおかしさ、悲しさが、大所高所の評論家のご意見ではなく、物を言うすべを持たない庶民の痛みや悲しさに、親身に寄り添える大事な感覚をお持ちだからこそ、私を含めた民の支持を得て、作家として存在し続けることができたのだと思える。こういう作家はもう現れないだろう。
そして想う。もう私も限りなく普通の庶民としてのおじいさんになりたいのだ。難しいことは考えない。18才から世の中に出て半世紀以上が、瞬く間に過ぎたのであるが、本当に私にとってかけがえのないかたたちとの人生が、時間の許す限り共に歩めたら、もう他には私にはなにも必要ないのである。【蝉時雨・聴きつつ想う・昭和かな】
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