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2022-07-24

姉からの・干物届くや・蝉時雨、そして想う。

 今日24日は、次女の最初の子供葉くんの一切のお誕生日である。コロナ渦中に生まれ、今また7波の感染爆発が続いている。ウクライナでの戦争は5ヶ月を迎える。

何を打ちたいのかが自分でもよくはわからない。穏やかな夏の朝、蝉時雨を聴いてコーヒーをのみ、次女にお祝いのメールを打ったら、五十鈴川だよりを打ちたくなったのである。

なにはなくとも、時間的に余裕があり、五十鈴川だよりを打ちたくなるのだから、老いの養生、身心機能調節として、気まぐれ稚拙文を打つことで今をいきるのである。佐藤愛子さんをお手本とし、ヤケノヤンパチ少しでも気分が上向き、ほぐれるような一日を送りたい、ただそれだけである。

繰り返し読む古希の夏

初老凡夫には理解不能な出来事が、こうも何年にもわたって多発しやむことなく続くと、まともな良識を持っている、ごく普通の庶民はうつぼつとどこか、自分の体に風通しをよくしないと、まずいのである。

自分という存在の不可思議な謎というとオーバーかもしれないが、もし還暦以後五十鈴川だよりを打っていなかったらと考えると、ちょっとゾッとする。五十鈴川だよりを打っていたからこそ、きっと右往左往しながら、今日も打てているのではないかと想う。打たないとやはりどこかがよどむのである。流れは、久しく留まりたるためしなし、至言の言葉である。

老いつつも細胞は生まれ変わり、命はうつろい昨日の自分とは異なる。だから臆面もなく恥をさらして五十鈴川だよりを打つという、答えのない煩悩を迷宮入りのように打てるのだろう。

さて、話を変える。私には一人姉がいる。生まれたのは北朝鮮、平壌の近くの新義州から、両親生後半年の兄と共に引き上げてきた。強運の持ち主である。引き上げ時3才にはなっていない。今年79歳になったのではないかと想う。インターネットもなにもしない、スマホも持たない、善良を絵にかいたかのようなひとのいい姉である。

その姉から、先日干物が送られてきた、いつものように手書きの文字が添えられている。はんでおしたかのような決まりきった文字が書き連ねてある。お上手のない普通の常套紋切り型なのだが、その事の有り難さへの気付きの深まりを感じる。かけがえのない姉である。

この姉の存在が、やはりたぶんどこかで作用していて私をふるさとへと招くのだ、と思う。いくつになっても姉は姉なのである。80歳を越えている義理の兄も愚弟である私を暖かく迎えてくれる。だから私の心のユートピアであるふるさとに当たり前のように帰ることができた。だがふるさとの姉や兄達も高齢者である。この数年は毎回これが最後かもしれないというくらいの気持ちを抱きつつ、暫し元気な再会を寿いできた。

姉の文面には、年々老いゆく体の不具合が綴られている。だがいつも私が感心し、嬉しいのは末尾の言葉が前向きなことなのである。どこかで達観しているし、そのような日々の最中に私に干物を送ってくれるのだ。ありがたい、ただそれだけである。

肉親であれ、友人であれ、人は生涯に何人のかけがえのない存在と、出会えるのであろうかと、今更ながら思い至る夏である。【姉からの・干物届くや・蝉時雨】

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