暑さがこたえる夏が続いている。蝉時雨がかまびすしい。でも蝉のなかない夏などといったものは夏ではない。古希になってもいまだあの夏の少年期の黄金の夏を懐かしく思い出せるのはなんとありがたいことかと、思わずにはいられない。
記憶の宝庫とも言えるわが体である。繰り返し思い出しては、老いゆく体の気休めとして重宝している。見よう見まねで五十鈴川に飽くことなくかよい、泳ぎを覚えたあの夏の日の嬉しさは忘れようもない。なにもなかったが体はあった。そして何よりも無限に相手をしてくれる五十鈴川があった。そしてその五十鈴川は今も清流をとどめ、古希男のふるさとへのおもいを書き立ててやまない。
過ぎてみないとわからないことがある |
ところで話は変わるが、7月はもうアルバイトはない。ゆっくりと本でも読んですごそうと思っている。とは言うものの早起きのリズムは決して変わらないし、ルーティンとも言える草取り等は、朝一番にやらないと、こたえるので今朝も朝一番に小一時間汗をかいてきた。戻って水を浴び五十鈴川だよりを打っているというわけである。
こうも暑いと、思考回路も弱まるので、打つこともなしといった思いにもかられるのだが、そこをなんとか面白く一日を過ごすために、あれやこれや考えるのである。古希を境にしてということもないのだが、本を読む傾向が以前とは異なってきたというのを、最近感じ始めている。
夏は読みやすい本を、自分にとって面白い本だけを読むたぶんこれは老いてきたこともあると思う。無理をしなくなってきたのである。
とわいうものの、これまで読まなかったような人物評伝のような本も、夏の読書としている。今読んでいるのは、起業の天才として知られ、バブル期に一時代を築いた江副浩正氏の470ページもある本で分厚い、リクルート事件で検察に電撃逮捕された江副浩正氏の大西康之氏が書かれた本である。40才まで東京で生活していたのでどこか他人事とは思えないのである。
同時代を全く異なるところで生きて生活していたものにとって、江副浩正という人間がどのような人生を歩んだ人間であったのかに、興味を持っていたし、また今日に繋がるあの時代がいったいいかなる時代であったのかを振り返り、ささやかに暑い夏に頭を冷やして考え、物思いに浸るのも、一興であると考えたのである。
すでに300ページを読み終えたが、ぐいぐい読めて面白い。人は生まれ落ちた環境や時代、本人の資質でかくも劇的に変化し続けるのだと、凡ぷには接点が余りにもないとはいえ、一人の人間の劇的栄華盛衰には、暫し感慨にふけるに十分な読み物的な面白さがあるのである。
米軍の占領が終わり1952年生まれの私としては、高度経済成長期、バブルが崩壊した1989年頃(長女が生まれた年)ソ連が崩壊、冷戦が終わり、世界の枠組みが代わり、インターネットが本格的にはじまる。以後日本は30年以上経済低成長期が今に続いて、私は古希をなんとか生きているというわけである。
バブル崩壊後、私は妻3才の娘共々岡山に移住し、今を生きているが、判断力決断力、たまたま運が味方したから現在があるのだと受け止めている。まさに人生はどう転んでも一寸先は読めない、わからないというのが、今をいきる私の正直な感慨である。
そしてその事は、すでに3年も続くコロナの変異で思い知らされているし、ウクライナでの戦争勃発から5ヶ月以上、物価は高騰し先行きの不安は減ることはない。だが、でくの坊は思うのだ、暑いなかでではあれ、草を取り体を動かし水分を補給し、茄子を収穫し今日をいかにいきるのかはすべて自分の動ける体に宿っているのではないかと、よきに計らうのである。そして疲れたら休むのである。
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