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2022-07-16

【孫来たり・暑さとおのく・わが家かな】そして想う。

 昨日夕方、午後6時新幹線で次女家族が2泊3日、今日次女の友人の結婚式に参加するために、まもなく1歳になる孫と夫であるS平さんもともに帰省した。というわけで普段私が使っている部屋は、次女家族が使っているので、私は書斎に寝て、いつものの時間に目覚めたので、起きて五十鈴川だよりを打っている。

昨年の夏7月24日コロナ渦中に生まれ、今またコロナ第7波のなか、元気に成長している孫と再会できたことの喜びを打てたら、もうことさらとくに打つこともないのだが、いつの日にか孫が、私がもうこの世には存在しなくても、想像力でもって、この日の五十鈴川だよりを読むことが(よしんばなくても構わない)あるやもしれぬ、何てことを想うとお爺としては打ちたくなるのである。

喜びの性ということにしておこう。もうすでに自力で立ち上がれるところまで、まさにあっという間に孫は成長している。両親の愛情をたっぷりと受け、しっかりと育っているのがわかる。命はまさに千差万別の環境に生まれてくる摂理、我が娘の家族にやって来た命の成長を遠くから見守るためにも、ささやかに一年でも長く生きてお役に立てたら私も励みになる、何てことを殊勝ににも想う私である。

理屈ではなく、まさに言葉を自在に発することができない今の孫の姿は、神々しいとでもいう他はないほどの輝きを放っている。90才になる母も昨日からお泊まりに来ているが、なんとも嬉しそうである。家族に関してこの数十年、これは単なる私の印象で、とお断りを入れておくが、家族受難のニュースが多い気がする。幸い私は子供に恵まれ、今また孫に恵まれ、母に至ってはかなりの高齢者になり、いつ何時何が起こっても不思議ではない人生時間ではあると厳粛に受け止めつつも、とりあえず健康に穏やかに過ごせていられる、わが家族の夏の有り難さを噛み締めている。一瞬の夏の有り難さを打たずにはいられないのだ。

起きたばかりの葉君

わずか2日間の里帰りではあるものの、孫の帰省に対する妻の喜びようは、男親とはまた全く異なり、ただただ嬉しそうで、それを見ている私もただ嬉しいという気持ちになるのだから、つまりはこれがありきたりに言えば、幸福ということなのだと、月並みに思い、平凡の極とはこういうことなのだと、府に落ちるのである。

なんとか古希まで生きて来れ、現時点での人生で、このような孫との廻り合いなどいったい誰が想像し得たであろうか、まさに一寸先喜びも悲しみもいつ突然に訪れるのかは、やはり神のみぞ知るとでもいう他はない。

だが、ともあれ今孫は隣の部屋にいる。つかの間ではあれ、次女家族と母も含め全員健康で再会過ごせた喜びを、五十鈴川だよりにきちんと打っておこう。【孫来たり・暑さとおのく・わが家かな】。孫のお世話をする一日が始まる。


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