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2022-07-03

猛暑のなか菜園場所で自足時間をすごし心身を整え、そして想う。

 起きて外に出てみると、地面が濡れている。夜中にお湿り程度の雨の恵みがあったのだと知る。集中豪雨は困るのだが、ほどほどの雨、まさに恵みの雨程度の雨が降ってくれないことには、まさに第一次産業、とくに農家の方たちにとっては、死活問題といっていいほどの重大事である。

そんなことを身に染みて思うのは、ささやか極まるのだが、わずかな面積の菜園場で、茄子やトマト、そして移植したばかりなのだが、枝豆を育てているからだろう。この記録的な季節外れの猛暑のなか、お休みの日も必ず菜園場の様子を見ながら、朝や夕刻の水やりが欠かせない。

自足する時間、居場所を見つける

水がかれたら、植物の命はたたれる。オーバーではなく人間も同じであると、つくづく感じ入る。枝豆に水をやりながら、命を育てながら、そして自分の心と体の手入れをするかのように、容赦のない暑さのなか、一人青空のしたで、これもまた運命と呟きながら一人時間を過ごすのである。

水を得た魚ということばがあるが、根付き始めた枝豆は地中に根を伸ばしながら、天に向かって枝葉が伸びてゆく。根を張らないと、たちまち枝葉は容赦のない自然界の掟のなかでかれてしまう。それほどに過酷な自然界で根をはって生きてゆくのは厳しいのである。

そのようなことに想いを馳せる一時を持てることが、作物を育てたり、天ノ下で肉体労働に従事できることの、あり難さであると思い知る。何気ない一日の猛暑のなかでも、枝豆は水と栄養、光があれば成長する。傍観者に過ぎない私は根付き始めた枝豆の緑の葉を眺めながら、無言の対話をする。

なんとか古希を迎えることができたからこその、ある種の感慨とでも言うしかない。コロナ下、そしてまたパンデミックに世界の食料問題やエネルギー問題に影響を、嫌でも及ぼしてしまう、ウクライナでの終わりの見えない(終わりの始まりではないことをいのる)不条理戦争の最中、心身が落ち着ける居場所があるということの、なんという有り難さであろうかと、まさに念仏を唱えるのである。

八月が来れば、このフリーター的青空仕事は丸4年を迎える。始めたときまだ最初の孫は生まれていなかった。今月の24日、昨年コロナ渦中で生まれた二人目の孫は一才になる。まさに万物は流転し、時は流れうつろい流れゆく。

予測のつかないことがあまりに多次元にわたって頻発し、あらゆるメディアが、かまびすしく報じてまるで報道洪水ととでも言うしかないが、古希男としては足元の空と大地からの知らせに耳を澄ます訓練を続けること以外に他にやることもない。出掛けない限りほどほどのお金で、満ち足りた生活を実践する術を、五十鈴川だよりをうちながら、答えのない答えを、ハムレットのように、あとは沈黙と打てるまで、打ちたいというのが今朝の正直な気持ちである。

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