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2022-07-29

古希の夏、90歳の母と妻と3人で剪定作業、そして想う。

 もう打つのも嫌になるくらいの暑さと、コロナの感染急拡大の最中、朝一番妻と私と母の3人で、母の家の繁った樹木の剪定作業を済ませ、シャワーを浴びさっぱりした気分で五十鈴川だよりに向かっている。

なにもこの暑さのなかでやる必要もなかったのだが、妻と私が同じ日におやすみというのはなかなかにないし、何よりも今日はゴミの収集日であったので、収集車がくる前に済まそうということで、3人で思い付いたが吉日で事をなしたのである。

古希の夏・昭和は遠く・なりにけり

わずかな樹木の選定作業といえども、業者に頼めばお金がかかる。おかげさまで私がまだ元気であるので、ここはひとつ妻のたのみを二つ返事で引き受けたのである。何よりも90歳になる母も動きはよたよたとはいえ、片付けで参加し妻はまだ元気に年相応に動けるので、見事に片付けることができたことの、何はともあれ62才、70才のトリオでの夏の剪定の思い出ができたことを、ささやかに打っておきたいのだ。

今できること、今日できることを、3人でやれるのは家での庭仕事くらいしかない。3人で語らいながら体を動かし、汗を流す。せわしなくなく蝉時雨をききながらでの老老親子仕事、これもまた現代の風景といえるかもしれない。その事をたんたんと肯定的に受け止めながら、やがてはこういうこともできなくなる日を見据えながら、でもまだ今日はできた有り難さを、五十鈴川だよりに打ちたいのうである。

母は老いて当たり前、現在の体を緩やかに動かす、嬉しそうであった。妻もまたどこか嬉しそうであり、私もまた老いゆく夏の、つかの間の親子時間が過ごせたことの、至福を感じたのである。この先このような共有時間は徐々に減ってゆくだろうが、私と妻が元気な間は、母との時間を楽しむ工夫をしなければいけないと、改めて思う夏を過ごしている。母は週に3日デイサービスに春から通っているが、今のところ一人で暮らせるほどの人である。

このところあまりの暑さで少し弱り、我が家で過ごしているので、妻は安心している。妻がことのほか母の面倒を細やかに見ているのだが、その献身ぶりには親子とはいえ、頭が下がる思いである。このようなことはあまり五十鈴川だよりでは打ってははないのだが、老いは必ずやってくる。老いは必然、病気ではない。元気な今のうちから、これは祈りのようなものだが老いをいかに生きてゆくかの勇気とよすがを身近な母から学びたいと、想う夏の朝である。

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