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2021-05-28

朧月夜の明かりで目覚めた夜明け前の朝に想う。

 M新聞を購読するきっかけは、書評欄が充実していて私の好きな作家や、本を読んだことのある方の多くが書評されていたからである。

毎週毎週出版される、魅力的な本の書評を、すべてではないが感じ入った一文を切り抜いて、ノートに張り付け、熟読するのを趣味のようにしてきて20年近くなる。大きさの違うノートの数はすでに数十冊になる。

何度かもう切り抜くのはやめようと思っているのだが、いまだに続いている。ただいえることは、 切り抜いて貼るという行為はそろそろ終わりにしようとは思っている。

書評以外の、気になった記事などをも随分切り抜いては、ノートに貼りつけてきた。アフガニスタンでお亡くなりになった中村哲先生に関する記事などは、目にしたら必ず切り抜いてきた。

私は飽きっぽく移り気な自分の性格の弱点を自覚している。そのような自分を、どこか変えたいという思春期からのおもいは、この歳になっても、いい意味でのトラウマのように消えず、そのことがどこかで、書評他の気になった記事を切り抜くという営為を続けさせているのでは、と自分では思うのである。

でもまあ、ひとりで手軽にできお金も不要、その営為が面白く愉しいから持続できているだけで、ほかにことさらな理由はない。 

未知の言葉、未知識を知ることは、理屈抜きで楽しく面白いのである。脳が刺激され何かが分泌されるような快感が伴うのである。脳が喜ばないことはノーである。たぶんおのおの各自脳が喜ぶことを見つけて日々を生きておられるのだと思う。

私の場合も同じ。世の中に出て経済的につらい経験を数多くしてきた私は、書物によって随分と助けられてきたし、(幻想、希望が持てた)それは今もまったく変わらない。思春期まで書物の持つ豊饒な歴史の哲学をまったくといっていいほど知らずに、無知丸出しで生きてきた悔恨がいまだに消えないのである。

だが、ようやく最近その悔恨が消えないまでもうまく言えないが、うすまってつつあるのを感じるのである。以前は何か俗に知識人といわれる(有識者とか)インテリ、書物を著わしたりする学者や文学者、芸術家に対して、どこか羨望的な気持ちを抱いていたのが、なくなってきたのである。いい意味で老いてきたのだと思う。じたばたしつつ老いををうけいれたいのである。

うまく言えないので、これ以上文字化しないが、恐ろしいまでに変容してゆく、(宇宙までも視野に入れつつ、競争破壊を繰り返す人類)現代社会を生きている全地球上の弱者の存在 が、すべて輝かしく、生きて存在しているだけですごいと、だんだん思えるようになってきたのである。福沢諭吉ではないが、この世に、上下はない。(恐ろしいヒトがいるだけである)

ただ現実生活の中で、自分にとって素晴らしいと思える人に出会うことはよほどのことがない限り少ない。私の場合、書物と出合わなかったらアクションを起こして、会いたいとか、行きたいとか、見たいとか、聞きたいとか、食いたいとか、触れたいとか、着たいとか、あらゆるヒトだけが持てる自分の本能的な欲望には火が灯らなかっただろう。

だが、これからは肉体の灯を、いい方向に消してゆくための、新たな言霊探しの読書を始めたいと念う私である。

 





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