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2021-05-27

無所属個人として、晴耕雨読、ふともの想う朝

 雨が落ちたら肉体労働はお休み。このシンプルさがたまらなくいい。加齢と共に五感を含めた身体機能は低下するのが当たり前である。だが私はまだ動けるし、綴ることで思考する。術後退院して2カ月が過ぎ以前とまでは言えないにしても、日常生活に関してはまったく支障がなくなってきた。

労働のおかげで下半身はかなり安定したのだが、右腕の下の手術傷を 無意識に庇い、上半身を無理に動かすのは極力控えていた、だが2週間前くらいから思い切って巻き藁稽古で両腕を引き分ける所作(けっこう勇気がいった)を少しずつ始めたところ、気持ち筋力がついてきた、のがわかる。

事程左様に、身体あっての精神、精神あっての躰なのだということを、今更ながらのありがたみを覚えながら、五十鈴川だよりを綴っている。

動く、動けるということの素晴らしさ、何も遠くまで出かけることが動くということではない。狭い行動範囲の中でも、充実して動くことの、意識が働くことの喜びのような感覚を、術後はっきりと私は自覚するようになってきたのである。

もう十分に若くはない私は、あちらこちら出かけなくても手の届く自粛生活の範囲で、(孫に会えないのは辛いが)体と精神の自由と少々のお金(書物と食い物)があれば、十分に今を生きられるのである。

晴耕雨読という言葉があるが、今日は本を読んで【いま私は若松英輔著 霧の彼方 須賀敦子 という本を読んでいる】過ごそうとおもう。

人間の集中力は2時間程度と、物の本で知ったのだが、疲れたら休んでほかのことをする。五月雨の中の散歩もまたいとおかしである。若いころには若いころにしかできないことがあり、今は今でしかできない、味わえないことがあるのだと知る。人生の季節ごとの喜びを、自然の神はきちんと用意してくださっておられるのだと、術後とみに感じるのである。要は見つける勇気を、持てるか持てないか。

話を変える。飢えたら人間は鬼畜化する。ヒトは置かれた状況で変化する。しないと生きてゆけない。誤解を恐れずに書けば、飢えてさえいなければ、いまの私にとっては 非常事態は限りなく遠い。

どこかのいまだたくさんある他国の、あまりの貧困や偏見、差別、不公平(わが国でもだが)理不尽、不条理、そのような世界を知りつつ数十年、初老男として忸怩たるものがある。沈黙は加害者の側との言説もある。

先日NHKスペシャルで、ビジョンハッカー、デジタルZ世代のユニークな希望の持てる取り組みを見た。旧来の発想とは異なり見返りを求めない、ヒトとしての良心をもったデジタルZ世代の登場は老いつつある私にも希望を抱かせる。私も、たった一人だと思わず発言しなくては、孫に申し訳ない。

物思う自由や、言いたいことが言える、五十鈴川だよりを書けることは、ささやかな精神の発露、自由、この国に生まれた有難さである。老いも若きも様々な置かれたところでの理不尽さには、声をあげられるときにあげておかねばと痛感する。ある日突然、戦前のようにその自由が奪われたら。

自由を謳歌することができる国に生まれて、何とかこの年齢まで生きてきて思うことは、平和憲法を護持し、未来が血なまぐさい世界へと向かわないように、すこしでも真っ当な当たり前の世界へと向かうように、無所属個人として、五十鈴川だよりを綴る勇気をもちたい。


 

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