起きたばかりの胡乱な体。6時間熟睡して目が覚めた。コーヒーを淹れ、なんとも言えない静けさの中、本を読もうかとも思ったが(いま私は【哲学と宗教・全史】という、著者は出口治明先生の本を読んでいる、平明な語り口で高校生に還ったかのように学んでいる)何とはなしにパソコン画面を開いてしまった。
電気を消すと漆黒の闇である。でももうしばらくすると夜が明けてくる。この夜明け前の一時が、たまらなく好きである。いい歳なのに年齢を忘れる。こういう気分にいまだなれるということは、確実に手術後身体が回復しているからである。(と思うことにしている)
身体が元気でなければ、起きてさほど時間もたっていないのに、五十鈴川だよりはとてもではないが、書けない。10年近くよたよたと書き綴っていられることの、有難さは術後一段と増してきた感がある。
何をするにつけ、まず体と心が連動し、集中力が続かないと叶わない。どのような拙文であれ、意欲がわかなかったら無である。先の入院で、食欲他一切湧かない稀な体験を、わが人生ではじめて持てた際のことを、いまだ思い出す。
あの時の、えも言えぬ、かろうじて生と死のはざまを意識が揺蕩っているかのような、不思議な体感感覚の記憶は、もしこのまま健康が以前の様に回復するのであれば、やがては忘れてゆくのかもしれないが、あの4本の管につながれたわが体の無残なまでの姿と共に焼き付いている。
だから、あと4日もすれば退院してふた月になるが、体重も2・5キロ戻り(あと3キロ戻したい)労働のおかげで足と太ももの筋力が回復してきたし、これで弓が元の様に引ければ、上半身の筋力もゆっくりとついてくるのでは、と焦らず希望している。
だが言えることは 、身体が以前の様にもし回復したとしても、もう以前のような生活はできないし、あまりしたくない、というこれまでとは明らかに異なる自分時間を生きたい、といううまく言えないが、感覚の芽生えを感じるのである。
この一年間のコロナの渦中生活 のなかで、半世紀に及ぶわが人生の過ぎし来し方を、内省的に振り返る時間が増えていたのだが、この度の手術入院で一段と自分自身とという不確かな実在と向かい合う時間が増えそうな気配である。
簡単に言えば、お酒を飲んだりしていたころのような生活には戻りたくないというか、いい意味でストイックというか、せっかくこういう稀な体験したのだから、生活をゆるりと見直し変えたいのである。
どのように変えたいのかは、これからの自分との対話時間の中で実践するほかにはないし、自分でもよくわからないが、お酒を飲んでいた時間がほかの時間に充てられていることだけは確かである。
このような私と今後も付き合ってくれる方がいれば、以前も今後も新しい関係性が育めるのでは、と夢見るのである。夜が明けてきた。
0 件のコメント:
コメントを投稿