61歳で、何かに突き動かされるように、好きなシェイクスピア作品を を音読して遊ぶ私塾を立ち上げ、何とか丸7年続けていたのだが、昨年の4月新型コロナウイルスの猛威の前に休塾を余儀なくされ、間もなく一年2カ月が過ぎようとしている。
そして今、岡山でも新たなコロナウイルス変異株の 脅威は収まらず、先行き不透明。人知を超えたコロナウイルス出現の未知の現実世界を前にして、茫然としながらも、ウイルスに対して何とか身を守る方策を(免疫力を上げる)個人で行う以外ほかに対処の仕様が見当たらない。
さて、きわめて個人的な私塾を休塾して後、塾生とはラインつながりのみの関係性となってしまっている。私のつたない五十鈴川だよりを読んでくださっている方はご存じだと思うが、私は家族や大事な友人とのライン以外は、最低ラインのデジタル音痴ライフを、あえて苦楽し、すでにある意味では現世的な役割を終えつつある人間である。
すでに人生の社会的、親としての役割の大部を終え(まったくそのことに悔いはない)、これからはいまだ知らない、過去の先人たちの未知のお仕事、声に耳を傾ける時間をこそ、優先大切にしたいと思いつつコロナ渦中生活を静かに過ごしている。
年が明け 、このまま休塾を続けていても私自身の個人的な生活上の問題もあり、ここはいったん閉塾して、また先の未来コロナが終息してのち、個人的な諸状況が整い私自身の音読に対する情熱に変化がなければ、またその時点で考えようとまで考えていた矢先のことである。
3月初め、コロナとは全く関係ない個人的な手術体験、出来事に急襲され、何も考えられないような稀な体験下に置かれ、3月下旬、退院したばかりのある日、思いもかけぬ長いお手紙のような、私にとっては感動的なメールを一人の塾生からいただいたのである。
その内容、文面は、私を介して知った、思いもかけぬ中村哲先生のことにも触れられていて、私の琴線に十分に伝わってきて感動したのである。中村先生の活動を、あのように素直に受け止められる感性、そのような塾生が存在することは、喜び、希望である。希望は絶望の中にこそ見つけるほかはない。
そして先日、今度は五十鈴川だよりを読んで私の手術入院を知り封書でお手紙をくださった方の存在。身に余るとはこのことを言うのである。
私の体は明らかに以前の躰とは異なり、肺活力も筋力も衰えているが、再びゆっくりと年寄りらしく無理せず鍛えている。シェイクスピア作品の音読は、今現在の自の体から内なる声を発することで、各々の体が共振し、お互いの希望の声を聴くことである。
わたしの私塾に、このような思いを抱き続けている塾生の存在に対して、何が可能なのかをあらためて私は今術後の体に問い始めている。
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