この度の帰省旅。 地方にも急激なコロナ感染が広がる中、どこか 気持ちの切り替え、整理ができたふるさとj間を過ごすことができ、思い切ってよかったと思う。
私はもちろん、兄や姉も高齢化が進む中、何はともあれ元気にしばしの再会時間が持てたことは、慶賀の至りであったと、今つくずく思いながら、五十鈴川だよりを書いている。
姉は私より、9歳年上、齢80に手が届く高齢者だが 、買い物など近所ではいまだきちんと運転できるし、年上の旦那さんとの二人での晩年生活をつつましく営み、身の丈に合う足りる暮らしを楽しんでいる。
姉は幼い時から、できの悪かった愚弟の私の面倒をよく見てくれた(かけがえのない人である)。この度の手術入院でもたびたび妻に電話をくれて、私の按配をことのほか心配してくれていたので、元気に回復している姿を是非見せたかったのである。
姉は、元気に回復している私の姿を認めると、ことのほかの喜びようで私を迎えてくれ、私もいきなり以前の様には、馬鹿な冗談も言えず、殊勝にかしこまり、この度の入院に際してのお礼を伝えた。
いくつになっても姉は姉 、まるで母親代わりのように、もう十分に老いている私の胃袋に、故郷の手料理の数々でもてなし、最後の日の昼には、姉夫婦、長兄夫婦と共に、お天気の外での快気祝いをしてくれた。
臆面もなく五十鈴川だよりに書いておこう。理屈なく、年齢を忘れ馬鹿なことが言え、遠慮なく甘えられるのは 今となっては、この世で我妻と姉の二人だけである。
この度の入院で思い知ったのだが(忘れるといけないので、こころに刻み付けておきたい)大事なヒト、かけがえのない身近な大切な人の存在が胎に落ちたのである。
今現在の私の生活にとって、こころから大事にしなければならない存在への、気づきの深まりは、手術入院という予期せぬ不意の出来事がなかったら、叶わなかったかもしれない。なくしてみて初めて分かるということがある。
在り難い、ということの気づきの深まりこそが、老いてゆく途上での生の醍醐味なのかもしれないと、ぼんくらの私は手術した傷に触れながら、生の執着に想いをはせるのである。
健康、時間、つながり、大切さを感じます。
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