コロナウイルスの新型肺炎のメディア報道に関してはいささか唖然とする。予測できないことに関しては、沈黙するしかないが、それにしてもこうも予測のつかない出来事が、次々と起こると、やはり人間の心は不安になるのは、私だけではないだろう。
だが、いたずらな不安にはおちいらないように、終息に向かうのを念じながら、浮き足立たなように、静かな暮らしを続けるだけである。五十鈴川だよりを書き始めてまる7年が過ぎたということは、シェイクスピア遊声塾も今年8年目に入ったということである。
本当に毎週毎週があっという間にやってくる。還暦を過ぎて始めた塾のおかげで、私の熟年ライフはおかげさまで、熟年という言葉がまさにぴったりという感じで過ごさせていただいていられる今を、誰に感謝したらいいのかと臆面もなく書けること自体が幸福なことである。
思い煩う時間があったら、とにかく掃除散歩他なんでもいい、体を動かす。動いて声を出す。という心がけで毎週毎週声を出してきたという感じなのである。声を出せる身体にあやかり、わが体にしがみついて声を中空に放って今を生きていることを、確認してしてきたのだ。(と思う)ましてシェイクスピア作品の言葉、不足はあまりになさすぎる。
33歳の時に求めた本最近改めて読む、素晴らしい。 |
アルバイト先で、足先や指先を使うことをとても最近意識する。のこぎりで枝の剪定をしていても、足腰の重心を下におろし、手先を意識し引く。繰り返し繰り返し、波のように体を動かす。剪定ばさみでのハサミ動かしもそのように。根をつまんで、引く動作も然り。
体全部に気が廻り、おじじの体の細胞に血液がゆきわたり、冷えた冬であれ一時間も体を動かしていると温まってくる。かじかんでいた手足も温まってくる。生きているがゆえに味わえるのだ。防寒具の有難さ。
吐く息は白いが、身体は温まっている。天空の下で暖かいお茶を飲むとまさにうまいのである。生きているということは(幸福とは)実にシンプルなのであるということがこの年齢にしてようやく実感としてわかる。苦楽は不即不離よじれてつながっている。
快感と悦楽は、敢然と立ち向かうことの中にしか見つけられないというのが、私の現状認識、とくに男という性は。 女性は男の私にはわからない。朝から何を初老おじじは書いているのだ、ろう。だがもう何を書いても、ヒトにに笑われようが一向に構わないのだ。
命の輝きというものが、いまだ老いの身にも宿るのであれば 、輝かねばばちが当たる。ご先祖に、あまたの報われぬ死者に顔向けができないと思ってしまう、粗忽者無骨者がどうやら自分らしいのである。窓から東の空に花王石鹸のような月が見える。さあ一日が始まる。
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