三日も体動かし仕事をしていないと、私の場合ちょっといまだなまる。だから今週は晴れマークが多く、決まったような余計なことに描かずりあうこともなく、 自分の思いのままに声を出すかのように、体を動かし仕事ができることが、ただただうれしい。
生活にリズムが生まれ、一日が気持ちよくスムースに流れてゆく。この思いのままに動かせる、生きられるリズムこそが、わがまま幸福である。
オーバーに言えば、オジジアンの今、再び子供のようにわがままに生きられるのは、幸せの極致である。このようなことを臆面もなく書くから、私はきっと極楽とんぼなのである。
だが、一人の冷静なもう一人の自分は、世の中や世界の流れには、ほとほと愛想が尽きつつあるが、言葉遊びではなく私にとっては、絶望は希望の裏返しである。
絶対矛盾を抱えこみながら、自分の一回こっきりの、この不確かで予断の許さない人生を、きっと自分なりに物語り化して、平衡感覚を失うまいとしているのだ、と思う。
シェイクスピア作品の登場人物たちは、物語りを語って倦まず飽きない。私が息も絶え絶えにシェイクスピア作品の登場人物に感情移入して、時におじじを忘れるかのように、声を放てる今現在の体にしがみつくのは、そういうゆえと、自己認識している。
働くのもそうだ。私は動くことが好きなのだ。だから旅も大好きである。動き声を放ち働くと疲れる。そして栄養を取り、ひたすらぐっすりと寝る。不思議睡眠の魔法で、老いた体が蘇る(ように思える)。
私は何度もかいているが漁師さんとか、職人さんとか体を動かして生計を立てている方が好きであり、そういう方々の言葉の方が、俗に知識人といわれる方々の言葉よりはるかに 信じられる。
中村哲先生の言葉には、実体験の経験則の果てに紡ぎだしている言葉だからこそ、感動するのである。土取さんの文章や言葉も若き日の血のにじむようなドラミングの修練鍛錬の礎の上に紡ぎだされている言葉である。
土取さんとの出会いはやはり運命である |
話は変わるが、私の好きなシェイクスピア作品の登場人物のキャラクターは、私ごときの手には負えないほどの、複雑怪奇な諸相をもって私の眼前に立ちはだかる。
時にもう無理であるとの、内なる声も聞こえてくるが、先延ばしで一年一年と続けている、いわば遊声塾のレッスンは私にとっての険しい山登りである。毎週毎週のレッスンの積み重ね、もう私にはあれもこれもやれる時間はない。
が、縁あっての土取利行さんの企画だけは、土取さんがやる間は企画者として並走、復帰する。伴侶出会った桃山晴衣さんが逝去されて十数年、そのお仕事を土取さんが受け継ぎ、取り組んでいる 添田唖蝉坊のあの明治時代の壮士演歌の今の時代の空気感の中での再発見は、慧眼的というほかはない。
土取さんの企画は半端な覚悟ではできないが、私の胎は決まった。お声がかかったのは成り行きである。背負えるうちに背負う覚悟である。
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