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2019-07-31

故郷往還旅から帰ってきました、その一。

昨日午後7時、帰省旅を終え我が家に帰ってきた。いきおい五十鈴川だよりでは書き綴れぬほどに、今回も思いもしなかった出会いや、再会、再再会が続き充実この上ないありがたき故郷往還旅となった。

27日土曜日、朝いちばんお墓参りを済ませ、義理の兄の車を借りて宇納間へと向かった。10時前に着いたので、車で散策していると宇納間炭焼館、という表示が目に留まったので、たまたま空いた道を走ってきた軽トラックの方に、炭焼感はどこにあるのかと問うと案内してくださった。

だが、館は締まっており見学はできないので困っていると、なんと案内してくださった方が、自分は炭を焼いているというではないか。見たいですかといわれるので、是非見たいと応えると、そこからやく500メートルの高さの山の上にある炭焼き窯まで案内してくださったのである。

詳細は割愛するが、そのいきなり出会ったご夫婦の作業場である小屋先で、私は一時間以上話し込んだのだが、お名前が同姓の日高龍生・(イセノ、奥様の名前)氏が門川小学校の同級生だということが判明したのである。
初めてみた5トンの備長炭が焼きあがる寸前の窯

聞けば奥様の先祖が生業にしていた炭焼きを、別の仕事をしながら50歳から炭焼きを始め、住んでいる門川から宇納間まで通いながら備長炭を焼いているというではないか。

これを奇跡的といわず何というのか。私は彼の名前も顔も失念していたが氏は私の名前を記憶していたのである。生年と生まれた月までおなじであった。57年ぶりの再会、氏は炭焼き仙人となっておられた。再会を約束した。


家のすぐそばの田んぼを眺めるベストカップル

そこから、お昼を約束していた日高正俊・悦子夫妻の待つお家まで下山。ご夫妻とは二月の出会い、五月の再会、お会いするのが3回目、悦子さんはわが五十鈴川だよりを愛読してくれている稀な文学少女の面影の宿る宇納間人で、地元に伝わるお料理の名人である。

方やご主人は質実剛健、軟派な人生を歩んだ私とは全く異なる、男気のある剛毅で優しい心根の持ち主である。ベストカッ
見たこともないお庭に在った花、思わず写真を撮った
プル、ご夫妻の人柄に甘えて宇納間もうでを繰り返す私である。

今回は、メインは焼肉のお昼をご馳走になった。イノシシのお肉・珍しい白いホルモン焼き、絶品のお煮しめ、魚の南蛮漬けなど。このようなお人柄が、今も残るわがご先祖の地。私の足が向かうのは、失われし(オーバーではなく)日本の面影が、ご夫妻にあるからである。

車の運転があったので、お酒は飲まなかったが、次回はお酒を酌み交わしながらの一時を愉しみにしたい。わがご先祖のある今となっては辺境の地は、平日数本のバスが走っておらず、土日は運休なのである。

ご夫妻の家のすぐそばを秋元川が流れ、五十鈴川に合流する。家の入口には見事な桜。もうすぐ75歳になられる正俊さんは80歳までは稲を作りたいとおっしゃっていた。書いているとあの夏の家周りの風景が浮かぶ。

午後3時過ぎ、ご夫妻とお別れしたが、還暦を過ぎご先祖の地を帰省するたびに、何度も訪れていたおかげで、日高ご夫妻と出会え、今回またもや同級生の日高ご夫妻と出遭えた奇縁、何と形容しよう。

何も願わず、無心でお導きのように、内なる声のままに揺れ動いているとご利益が叶うとしか言いようがない。ともあれ、君子の交わり、淡き交友を願い午後3時過ぎ宇納間を辞した。

2019-07-26

わが桃源郷に還る日の朝の五十鈴川だより。

こないだの上京に続いて、門川に帰省する日の朝の五十鈴川だよりである。身体が、そこはかとなくかそけき、思いに満たされる。わずか4泊五日であるが、これくらいがやはりいいのである。

午前中のアルバイトをお休みするために、その分一日時間を長く働いたので、この年齢では少しハードな日々ではあったものの、帰省の喜びがあるので、自分でいうのもなんだが、体調は非常によろしい。

人間やはり、可能な範囲で日々の暮らしの中に、精神のビタミンのような特別なニンジンがぶら下がっていた方が、たのしく暮らせる。ところで老いゆく初めて経験する未知のゾーンを生き粋生きるためには、最低の経済的な余裕は絶対的に必要である。

若いころとはまったく体の感覚が違うのであるから。最近冗談ではなく、自分が若いころとは、まったく別人とまではいかなくとも、別人の領域に入り込み始めたのを、何とはなしに感じている。

誤解されてもいいから書くが、どこか枯れ始めた自分を折々感じるのである。これを私は今のところ、老いの幸徳と思うことにしている。だから、会える時に何回でも兄や姉に在っておこうと思うし、五十鈴川を含めた、故郷のわが人生の命の源空間・場所、いわば一番大事なトポスに還るのである。

このようなことを臆面も書ける現在の自在な境地、有難いというほかなしである。だが枯れはじめてはいるが、外面はともかく、いまだアルバイトはできるし、遊声塾の素敵な面々の存在があるので、今しばらくは老いつつも老いの炎を限界まで燃やし続けるつもりである。(家族のためにも)

だから、体調維持を先ず第一に生活しながら、少しでも学びの時間を大切にすることにし、道場での的前に立つ弓の稽古は断念、部屋での素引きの稽古のみに限ることにした。

あれもこれもに集中時間を、割くことは叶わぬと諦念した。だからなのである、以前よりずっと、余裕をもって五十鈴川だよりが書けるのは。何かをしているときには、ほかのことはできぬ道理である。この年齢での一日の有限さ、優先順位の中で、もっともだいじなことに時間を割きながら、歩むことに決めたのである。

欲望を抑える欲望も必要と、いつぞや書いた記憶がある。漸くにして、もうゆったりと思索を深める年齢であると思い知ったのである。

ところで話は変わる。いつの日にか読める年齢が来たら読みたいと考えていた、畏怖する詩人であり作家である、先年おなくなるになった石牟礼道子さんの自伝をゆっくり、今読んでいる。もうすぐ読み終えるが、読み終えるのが惜しいくらい引き込まれる自分がいる。

きっとこれから、石牟礼道子さんが築かれた独自の文学を何度も老いと共に、自分は読むことになると思う、それほどまでに天草言葉というのか、独特の風土の記憶の言葉で、石牟礼文学は地に根差した言葉で、自由自在につづられる。


まさに、詩人の感性の特権的な、唯一無比の文学であることが、ようやく私にもその端緒が、理解できた。

かすかに、どこかに九州人的な言葉のニュアンスの近さを感じながら、昭和30年代のあのころの記憶の空気感を私も知っているがために、余計に入れ込んで読んでしまう自分がいた。

我が家から、20数キロのところに生家がある若山牧水のことも深くは知らない、朴念仁のわたしである。これからは近代化150年のふるさとの歴史も学ばないといけないと痛感している。

それにしても、か弱き民の声、立場に耳を澄ませる、詩人の嗅覚感性には脱帽する。添田唖蝉坊と共通する何かがある。

五十鈴川の源流宇納間は、わが父親のご先祖が住んでいた土地、歳を重ねるにつけかの地を散策したくなるのは、何故なのか。わからない、お呼ばれとでもいうしかない。

ともあれ、懐かしき人々がいまだ暮らしているあの地は、私にとってはどのような観光地も及ばない、まさになにもない(だがすべてある)桃源郷なのである。






2019-07-23

今週末から4日間ほど故郷に帰省することにしました。

今週の金曜日から、お墓参りのために門川に変えることに決めた。八月は何かと予定が多いので、機を逃すとなかなかに帰れないので、思いついたら吉日帰ることにした。

珍しく夕方五十鈴川だよりを気分転換がてら夕方書いている。昨日あたりから一気に夏らしくなり、蝉しぐれもようやく聞かれる今年の夏、学校はすでに夏休みである。

午前中働いていると、汗が滴り落ちる。夏が来たなあ、と一人ごちる。この年齢になると、確かに湿度の高い瀬戸内の夏は正直大変である。だから、この数年はとくに午睡をきちんと取り、体調を崩さないように私なりの工夫を凝らしている。

毎年折々書いているから、ご存じの方は多いと思うので繰り返しては書かない。今私は、上半身は裸で、二階の風が抜ける部屋で一文を綴っているが、私の暑さ対策の一つは暑さから逃げるのではなく、あえてほかのことに気持ちを集中することで、暑さをしのぐよすがとしている。

昔の達人は、心頭滅却すれば火もまた涼しなどと、のたまっているが、そのような高次元のレベルではなく、低レベルの私の個人的な対策である。これから、夏の終わりまでを何とか、コンディションを整えながら、やり過ごしたい。(だが汗をかく身体こそが生きている証である)

もうあと数日したら、五十鈴川で沐浴できるかと思うと、いい歳なのにいまだどこか浮き浮きする自分がいる。もう今年になって3回目の帰省になる。子育てを終え、時折のアルバイトのおかげで、気兼ねなく故郷往還が可能になった今のわが暮らし。

妻の理解も得られ、たとえようもなくありがたき今というほかはない。亡き父がすっぱいほど私に繰り返し言った言葉、若いうちの苦労は買ってでもしろ、30歳までは男はやり直しがきくと。

その言が沁みるのである。だから散々心配迷惑をかけた両親のお墓に、私は参るのである。私の命はご先祖様のおかげなのであるから、そのご先祖様に参るのは当たり前。

私の体の中には、祖父母、両親、ほか故郷の少年期に共に過ごした人々が、くっきりはっきりいまだ鮮明に生きている。日々の日常生活ではなかなかに思い出さないことも、故郷への帰省では一気にいまだあのころへと回帰する、特に夏は。
夕方なのでしぼんでいるが妻が育てた朝顔

私の場合だが、あの少年期こそが人生の中での、無名無垢の黄金時代であったのだと、老いて思い知るのである。便利なものは何もなかった、が何か大切なことはすべてあったかのような気がしてならない。

でもこのような、ちょぴりと感傷的な戯言も、おそらくは今が何か満たされているからこそからこそ、臆面もなく厚顔につづれるのだろう。

兄にラインで急きょの帰省を知らせたら、了解しました、との短い返事。今回もまた兄や姉と、他愛もない話をしようと思う。小さいころの共通の思い出を語り、一献傾けよう。お互い悔いなく元気なうちに。

両親には、次女がこの夏結婚式を挙げる旨きちんと報告するつもりである。

2019-07-21

【坂の上の雲の時代の演歌】を聴いてきました、そして想う。

土取利行さんからの案内がなければ、おそらく司馬遼太郎記念館にもゆくことがなかったかもしれない。本当に自分は無知蒙昧であることを、毎回思う。でもそういう自分の無知なる自覚がある間は、学べるという希望を持とう。

大政奉還以後からの明治大正、戦前前後の昭和150年の歴史を、私に残された時間の中で、庶民の側から少しでも学ばないといけないということを、土取利行さんと松田美緒さんの今回の企画、【坂の上の雲の時代の演歌】から、あらためて思い知らされた。そのことだけは、五十鈴川だよりにきちんと記しておきたい。

それにしてもわずか2時間ちょっとの時間では、添田唖蝉坊・知道親子の数百曲にも及ぶ、激動の時代の歌に込められた、多岐にわたる思いの深さを伝えることは困難である。(と思わされた)

土取利行さんと、今の時代の聴衆との乖離のような空気感のずれを、何故か感じてしまった。(それほどまでに私も含め現代人は平和な日常にどっぷりとつかっていて、危機感覚アンテナが弱まっている)私は少なくとも何度も土取利行さんの歌う唖蝉坊演歌を聴いているので、その世界に寄り添うことができるのであるが。

土取利行さんの、年齢を超越した熱き想い、添田唖蝉坊世界を伝えるには、一曲が数十分もにも及ぶ作品もある歌の奥深さを伝えるには、この時間ではちょっと難しい。企画する側の問題である。聴衆はほとんどが高齢者(私より上の世代が多かった)聴く体力が弱まっておられた。

でも中には、土取利行さんの話を熱心にメモしている人もおられたし、わずかではあったが若い方も(といっても40代くらい)参加しておられた。何事も学ぶには時間がかかる、私自身徐々に徐々に唖蝉坊のすごさが、何回も足を運ぶにしたがってじわじわとしみこみ始めているのだから。

お二人の出会いよる素晴らしいコラボレーション・CD
真の意味での偉大な芸術家の仕事は、後々の世まで伝わるのだと確信する。晩節の今、土取利行さんが取り組んでいる仕事は一音楽家の領域を超えている、と私は感じる。

言葉で伝えるのは至難だが、土取利行さんの熱き思いの深さは、奈変から湧き上がってくるのかは、神のみぞ知るというほかはないが、今この混迷極まる時代のさなか、唖蝉坊がまるで乗り移ったかのように語り唄う姿に、言いようのない思いが湧いてきたことを書いておく。唖蝉坊的生き方、土取利行さんの生き方は、私に勇気を与える。

最後に、松田美緒さんという歌姫、このような歌姫(日本人でこんなにファドが歌えるなんて)がいることも土取利行さんから知らされたが、この方の今後のお仕事にも注目したい。

2019-07-20

司馬遼太郎記念館で行われる、土取利行さんと松田美緒さんの坂の上の雲の時代の演歌を聴きにゆく前の夜明け前ブログ

まだ夜中だが、目覚めたので起きた。膝の上には花がやってきて喉をゴロゴロ鳴らしている。妻が拾ってきて、白血病のキャリアがあるが、発病せず、いまや妻にとっての大事な家族の一員である。次女もとてもかわいがっていたが、最近は私が餌をあげることが多いので、私にもすり寄ってくる。

さて、今日は午後2時から行われる、土取利行さんの東大阪、司馬遼太郎記念館で行われる【坂の上の雲】の時代の【演歌】を聴きにゆく。共演は松田美緒さんである。

もう何回も書いているから、あらためて書くのはよすが、この世に生を受けわたくしごときにも大きな影響を受けた、出遭い、ヒトが何人かは存在するが、25歳でロンドンで直接出遭った土取利行氏はやはり、出遭うタイミングが若かったこともあるが、特別の存在である。

以来40数年になるが、氏の多岐にわたる創造的営為の表現現場には、事情の許す限り足を運んでいる。海外でのピーターブルックの演劇の音楽監督の仕事にはゆけなかったが、日本での公演にはほとんど足を運んでいる。(ピーターブルックの芝居を見に行って、舞台上での演奏する姿を見たのが氏との最初の出会い)

考えると、氏との出会いなくば現在の自分は存在していないと思えるほどに、一方的に勝手に、影響を受けたというか、今もってその影響の呪縛は続いている、といった稀な存在の音楽家である。
説明を追加

関心のある方は是非、検索して氏の多岐にわたる歩み、取り組んできた音楽家としての全貌の一端を、知ってほしいと願う。

若き日、氏の即興パーカッションドラミングに度胆を抜かれた私は、あの年齢でいまだに時折パーカッションの演奏をされながら、今はだれにも忘れられた存在としての明治大正時代の演歌師、添田唖蝉坊・知道親子2代の稀代の仕事を掘り起こしている。まだレコードもラジオもない時代の路上の辻々でゲリラ的に歌う、演歌師の歌を。

氏は2008年末亡くなられた、パートナー桃山晴衣さんのお仕事を受け継ぐ形で、三味線を独習し、語り唄い始めた。驚嘆せざる負えない。添田唖蝉坊が演歌のルーツであることをはじめて私は知らされた。

近代化の影を生きた人々の声なき声の歌、歴史の闇に埋もれた、底辺に生きる民の苦悩を軽やかなメロディーとたぐいまれな歌詞(に込められた)演歌のルーツを掘り起こしている。再び書く、誰もが忘れている稀代の演歌師親子の仕事の再発見、掘り起しの難事業に果敢に取り組んでいる姿に感嘆せざるを得ない。

坂の上の雲のあの時代、庶民はいったいどのような歌にその身を託していたのであろうか。そして現代のわれわれが耳にする多くの浮世歌に、庶民の心を揺さぶるような歌がいったいどこに存在するや否や。少なくとも、私の感性に響いてくる歌のあまりの激減ぶりには、言葉を失う。言葉を持たない民の声を代弁する詩人の魂もった歌者はいずこへ。

歌を忘れたカナリアはいったいどこに向かうのか、ヒットチャート世代のわたしだが、お金に魂を囲われなかった添田唖蝉坊の民の声を救い上げ、なり変わって歌うそのシャーマン歌謡の素晴らしさ新しさ。今まさにこの現代を唖蝉坊の歌が照射するように思える。

亜蝉坊がまるで乗り移ったかのように、土取利行さんは語り唄う、そこに親子ほどの年齢さのある、歌姫松田美緒さんが寄り添う稀なコラボレーション。私にとっては今最も聴きたいお二人の歌である。

2019-07-19

雨である、不在者投票に行こうと考える朝の五十鈴川だより。

雨である、アルバイトはお休み。雨の予報でも岡山は晴れの国いうだけあって、雨が落ちてこない時間帯が多い、そういうわけで梅雨の時期であるのに、今月は今のところ順調に時間を消化しながらアルバイトができている。健康であるからこそ動けて、やる気も持続でる。この有難さ感覚を持続することこそが、老いの身を活性化する源である。

さて、いきなり話題は変わる先ほど新聞を取りに行くと、一面トップは京都の放火によるアニメーション会社の火災記事である。まさに国内テロとでも(詳しい原因はわからないが)いうしかない悲劇的事件。

参議院選挙目前のまさに悪夢のような惨事である。もう社会的な大部な役割は、ほぼ終えた我が身を自覚しているが、孫の行く末も含めてこれからの未来社会の人々の、明るき展望を望む私としては、今を生きる一前期高齢者としてささやかに思考ブログしなければならないと、再認識させられる。

高校時代に知った言葉で、折々私自身を救った言葉に、【絶望とは愚か者の結論)である、とか、リア王の台詞【今がどん底であるといえる間はどん底ではない】とか【身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ)とか、枚挙にいとまがないくらいに、単細胞九州男子は言葉の力に頼ったというか、自分自身に暗示をかけ、乗り切ってきた(これた)自覚がある。

便利快適、汗をかかない、少しでも効率よく楽をする。他者に無関心(スマホに埋没)現代都市空間にほとんどの仕事世代が暮らす現代とは、いったいどのような時代なのであるのか。バーチャルとリアルの区別がつかない。排泄する生き物としての自覚があまりにもない。(人類は多くの生き物の排せつ物ほかを醗酵し、たい肥にして作物を育て命をつないできた)
新聞で見つけた本、雨なのでゆっくりと読もうと思う

私のことだが現代人は、鳥になったかのような目で、俯瞰的に時折思考しないとまずいと、私のような凡夫でさえ考えるのであるが、考えても仕方がないとの、悪循環回路に、どっぷりつかって身動きが取れない、思考渋滞に陥っているのでは。(と自分にまずはとうのである)

長くなるので簡略に書く、楽をして何かを手に入れようなんてことは、どのような時代が来ようとまずありえないと、私は考える。それぞれの責任世代が考えては実践し、反省し、その中で日々の暮らしの中で、おのおの各自が、気持ちの安定する居場所を見つけて努力してゆくにしか、さしあたっての妙案など私などには思い浮かばぬ。

王様であれ、乞食であれ、等しく人間すべて与えられたこの世を生きてゆくのは、過酷を極めるとは、私自身のささやかな認識、ならばどのように生きるのか、どのような国にしたいのか、そのためには、様々な時代、歴史上の死者たちの紆余曲折を経て手にした、貴重極まる国民の義務と権利、今のところ選挙に行って示すしか私には他に方法はない。

インターネットのおかげでの、デモンストレーション、SNS,ユーチューブ、ツイッター、五十鈴川だよりであれ、意見が述べられる時代の到来、まさに全世界的な革命的というしかない時代の渦中を我々は生きている。負の側面も多々あるとは思うけれど、可能なら未来社会時間生きるための人たちの平和のためにも、あらゆるツールを有効に使い選挙に行って意思表示しなければ。(禍根が残る)

インターネットをしなくても、考えることを放棄しなければいくらでも方法はある。何よりも神様から人間は考える葦を与えられているのであるから、考える楽しみを放棄することは、まさに愚である。お金がなくとも考える自由をこそが、我が身の宝である。

我々の一票を託すための、政治家、人材が、もし不在であるとすればその国の行く末は、暗いというしかない。がそれもこれも、つまりは選ぶ側の国民一人一人の見識が問われる。つまりは自分が問われるのだと考える。

今朝の新聞に、37歳のアルバイトで生活して居る男の方の投書が載っていた。先の大戦でなくなった方々の慰霊のためにも、棄権することなく投票したい、と。



2019-07-17

ちょっと昨日の続きのような五十鈴川だより。

ジパングクラブの切符はのぞみが使えない。15日午後5時に東京を発ち、夜10時近く、東京から西大寺の駅に着くと雲間から、ほぼ満月の月が私を迎えてくれた。

妻はのぞみなので、往復は別行動と相成った。さて、夕方までのその日、毎回そうなのだが、午前10時前娘のところを辞して(ノア君とレイさんが見送ってくれた)神田の神保町に向かった。

岩波ホールで上映中の【田園の守り人たち】という映画を見た。詳細は省くが、第一次世界大戦で出征した息子たちの、銃後を生きて家を守る女性たちの暮らしを描いた、リアリティのある、すぐれた作品だった。(岩波ホールで見る映画ははずれがない)

もう今ではほとんどといっていいほどに、日々の暮らしでは映画を見なくなって久しいが、上京したら必ずといっていいほど、私の足は岡山に帰る日は神保町界隈で時間を過ごし映画を見る。
家族の映画、大地と共に生きる女性の崇高なまでのつよさ

もう何度も書いているから簡略に記すが、二十歳過ぎこれからいかに生きるべきか大いなる苦悩を抱えていた青春期、一年ロンドンに自費留学しようと決めた私は、そのための旅費滞在費を稼ぐために、水道橋の今はなきA書店で数年間アルバイトをしていたのである。

だからこの界隈は、ひときわ懐かしい青春の思い出の数々が詰まった街なのである。何よりも、私があれほど本を読まなかった私が本好きにになる、きっかけとなった街なのである。だからたぶん元気で上京できる間は、きっといつまでも旅人感覚で青春の思い出を反芻しながら、今を生きる糧を(心の)求めての時間を費やすことになるだろう。

さて、映画が終わって午後2時近く、遅いランチをカウンターだけのお魚の定食屋でホッケを食べ、お決まりの東京堂書店も含めた界隈で2時間ほど過ごして東京駅へ。丸4日間のオフタイムはこのように過ぎた。

さて昨日、起きてすぐアルバイトで午前中を外で過ごし汗をかき、午後は午睡の後机の前で過ごすという普段の生活へと一気にシフトチェンジした。

そして、今日は遊声塾のレッスン、家族のためにも自分のためにも、まずは私自身が日々生きがいをもって健康に生きねばならない、ということをノア君の成長を目の当たりにして再確認、当たり前のように生きていることの、何たる当たり前ではないことへの気づきがふかまった、有難さがしみた上京旅となった。

2019-07-16

おじじは望晃くんの成長をしっかりと見届けることができた、小さな東京物語スケッチ。

4日ぶりの五十鈴川だより、12日午後次女の住む千歳烏山のマンションについて、妻と娘と3人で久しぶりの語らいの一時を持ち、午後4時過ぎ、早めに仕事を終えたレイ君と同じ京王線で乗り合わせ、長女の働く京王多摩センターに在る保育園に向かい、17時からの望晃くんのお楽しみ会に仕事を終えた娘とレイさん、我々夫婦も参加した。おおよそ半年以上あっていなかった夏の甚兵衛の衣裳を着た望晃くんといきなり対面した。

立派に歩いている姿に見惚れてしまった。これ以上書くと爺バカのそしりを受けるので止すが、あまりの成長の速さに、正直ドギマギ、驚いた。いまどきの都市環境の中でも、これは手前みそではなく両親の育て方にくみするものが大きいことを直覚した。愛情がたっぷりと注がれている子供は、どこか泰然自若、素直である。

抱っこしたが、重くなっていて細腕の私には正直すぐに腕がだるくなるのだが、幸い歩くことが大好きなノア君なので大いに助かる。ともあれひっきりなしに両親のどちらかが話しかけるので、(それもドイツ語と日本語で)この分では言葉を見つけてゆくのもきっと早いに違いない、すでにパパママとしゃべる。

赤ちゃんは、自分で自分の世界を見つけてゆくのだと思う。親はそのために可能な限りの無私の愛情を注ぐのだろう。そういう意味では爺バカではなく、レイさんと娘を観ていると、本当に頭が下がるほどの愛情を注いでいる。いい意味での親ばか。この親元にやってきたノア君は幸福である、と何度も思わされた。

その日は、次女も参加しお寿司のテイクアウトほかで、稲城の娘たちの新しい住居で夕飯、主役はもちろんノア君。両親手作りの夕飯はすべて平らげる健啖ぶり、その食欲にビックリ、あきらかにこれはレイ君の血をひいていると感じた。

好物のバナナなどメインディッシュの後に、別腹で軽く一本食べるのであるから、大人ななみ、一番驚いたのは納豆をどんどん食べることである。赤ちゃんであんなにおいしそうに、納豆を食べるノア君恐るべしである。

これ以上書くとひきも切らないので、爺バカ観察驚き事はよすが、早い話、初孫は私を十二分に驚かし続けたこと、だけはきちんと記しておきたい。

よく13日は、次女の婚約者は参加できなかったが、全員で上野動物園に朝から行って午後まで過ごし、午後2時過ぎから各自フリータイム。私は新宿でガラスの城という映画を見て、夕方6時過ぎ稲城の戻り、ノア共々夕飯、妻と娘がすべて整えてくれていた 。

ノア君の夕飯、お風呂、就寝時間すべてきちんと決まっていて、その通りに過不足なくしつけられている、レイさんのドイツ式子育て方には、何度も目をみはらせられている。

ノア君が寝入り、全員お風呂に入ってから就寝タイムまで、親子での語らいタイム。レイさんも話好きなので、次から次から話題が途切れず、私はレイさんが注ぐ日本酒ですっかりいい気分で二日目の夜を終えた。

14日、次女の旦那さんになる周さんも参加、つまり家族全員で 横浜の八景島に在る水族館に行った。朝八時過ぎ出発、もどってきたのが午後五時前。私は全日の上野動物園も、横浜の水族館もゆくのは初めて、多分一人では決して行くことはなかったであろう思わぬ観光スポットでの二日間をノア君のおかげで楽しむことができた。

娘たちが小さいころに、何回かこのような場所におもむいたが、久しくこのような人混みを経験していなかったので、人混みの苦手な私としては、たまさかの苦行的行脚でもあった感は否めないが、ノア君にしてみれば、動物園、水族館で観た生き物たちは、本の中に出てくる登場人物が生で見、接することができたのであるから、興奮しないわけがない。

とまれ、その夜は私も周さんも夕飯づくりに参加、(レイ君は行きも帰りもドライバー、我々が料理している間に、レンタカーを返しに行った)メイン料理はエビフライとチンジャオロースー。周さんがエビの皮をむき、私が衣をつけ、何と油で揚げるところまできちんとできた。
ノア君に本を読んであげる妻、本が大好きなのである。

妻と娘がそのほかの手料理をサラダ他、手早く作った。その間次女がノア君のお相手。あっという間に夕飯が整い、全員でおいしく愉しく、共通の水族館の話題で盛り上がって、ほとんどのお料理をおいしく平らげた。

夕飯の後片付けもみんなでてきぱきと済ませ、疲れたノア君がいつもの時間に休んだ後は大人の時間、レイ君がチェコ製のカードゲームを、二人の娘夫婦、我々夫婦6名で楽しんだ。とても想像力を駆使するゲームで、珍しく私も興奮愉しい家族時間を過ごすことができた、一期一会の素的な夜を過ごせたことを、きちんと書いておきたい。

二人の娘のおかげで、私には過ぎた思いやりのある義理の息子がまたまた一人、この夏に加わった。 その家宝をもまた、きちんと記しておきたい。忘れてしまわないうちに、上京つれづれスケッチを、何とか記すことができた。

 寄る年波と共に、メガポリスは正直苦手なのだが、ノア君の成長だけはささやかに見守るためだけであれ、可能な範囲で上京したいと思う。家族を通して、今という時代の移り変わりをできるだけ体感できるおじじを目指したいと、殊勝に考える初老男である。



2019-07-12

孫の望晃くんに会いにゆく朝の五十鈴川だより。

好々爺という言葉がある。孫の存在がなければ、孫におじいちゃんとは呼ばれないから、あきらかに私は孫のおかげで、おじじといういわば社会的な存在になれた。

世間では目に入れても痛くないなどというが、孫が私にとってどのような存在であるのか、久しぶり、明日1歳4か月を迎える孫に会いにゆく上京前の朝の五十鈴川だよりである。

今日から4日間は完全なオフ時間に入る。年に数回このような時間がやはり必要である。社会的な時間と、プライベートな 時間の往還。

家族の在り様が急激に、あらゆる点でこんなにも変容、変化のやむなきに至ったおおよその この半世紀を生きた私にとって、何度も書いているが、家族はどこか私にはまぶしい存在である。まして2年前までは存在していなかった望晃くんが家族に加わったことで。

遊声塾を立ち上げてまる6年以上が経ち、この間のわが家族の変容は目を見張る。本当に人生は予断を許さず、シナリオなき展開というほかはない。長女に家族ができ、次女もこの夏に結婚式を挙げる。

そして私と妻は、ますますもって老境の境地へとの日々を否応なく歩まねばならない。このようなことを書くと、何やら寂しげだが、現時点でのおもいだがあえて書こう。

老いゆくことは、寂しくも悲しいことであるこを受け入れてゆくしかない 、でも絶対矛盾どこか孫の成長がうれしい、老いまたよしである。老いを受け入れ、新しい生を見守る。

これ以上は、現時点ではあえて書かないが、きっとあと数年もしたら、五十鈴川だよりは、生きていながら、死者たちと共に生きる、死との対話、死を意識的に考えるための思考ブログになりそうである。(いまだってかなりそうである)

妻と共に上京するのは久しぶり、妻が仕事を辞めたので実現。実現するのはうれしいが、その間母が、メルと花のお世話で我が家に泊まってお世話をしてくれる。母だって元気であるからお世話ができるが、やがてはできなくなる。

今はまだ、自転車に乗って我が家に来れるがそれもかなわぬことになる。あらゆることをきちんと受け入れる覚悟を今のうちから、可能な範囲でやっておかねばとの思いが深まる。

だから綴りながらの自己対話する。書くという内省的な行為は、精神の揺らぎを鎮める。宗教とは何か、禅的な暮らしとは、今のところ書き続けることで どこか初老男は、精神のバランスを取る。

おのれの命運は己自身との対話の中で、流れてゆくしかない。話を戻す、母が元気でいてくれるおかげで、我々は孫に会いにゆくことができるのである。誰かが嫌なことを(そのことの役割を引き受ける、喜びとして、母のすごさを感じる)引き受けてくれるから、この社会はかろうじての均衡、機能を果たしているのである。

それが何という在り難いことであるのかが、ようやくにしてわかる年齢に私もなってきたのだと思う。だからやがては私もどこに行けなくなっても、母のように娘や孫たちのお役に立てる、おじじになるためには、と殊勝に 考えるのである。
孫の望晃くんに音読してあげたいとおじじは夢見る

おひとり様とか、孤独の勧め、とか孤独をいかに生きるかとか、紙面によく見受けられる世相だが、千差万別の家族や、個人の生き方があってしかるべきであって、何人も比較しようもないおのれの一回こっきりのあたえられた、生を全うするしかないのが無常なのである。

ともあれ私には家族がある。普段はなかなかに会えないからこその喜びが老いの体に湧いてくる。孫のためにというとおこがましいが、命の連鎖、孫の存在は私にどう老いてゆけばいいのかを照らす。(そのような気がしてならない)

私が曲がりなりにも、初老男として元気に今を送れるのは、きっと孫を含めた家族の存在があるからだろう。私は考えるか弱き葦草である。人間とは家族を含め多くの方に迷惑をかけながらにしか、生きられないか弱き生き物である。だからこそ、、、。これ以上は一文を引っ込める。

ともあれ孫の望晃くんを含め家族に会いにゆく。戻りは月曜日、もちろん五十鈴川だよりはオフだが、レイ君のパソコンで書くかもしれない。





2019-07-09

鳥取県琴浦町に住むM氏から宝石のようなアンケートが送られてきました、そして想う。

鳥取県の琴浦町に住む20数年来の知己、友人M氏から過分なお褒めの、こないだのロミオとジュリエットの発表会のアンケートが送られてきた。

氏は大阪に仕事があり、そこから岡山にやってきて発表会を観て、夕方の特急八雲で風のように琴浦町に帰ってゆかれた。

発表会を終えた後、会場でひさかたぶりに再会、遊声塾を立ち上げてからは会っていなかった。いきなり氏は私をはぐした。男にいきなりはぐされたのは初めてである。
字体には人格が出る、氏に時間を見つけて会いにゆくつもりだ。

わざわざこの日のためにやりくりし、鳥取からかけつけてきて来てくださった彼を、ロミオとジュリエットの発表会が失望させなかったことが、コトバ、態度、全身から感じられ、私の中で、名状しがたい喜びが湧き上がってきた。

あれから2週間、再び彼からびっくりしてしまうほどの、熱血漢の氏らしい文字が躍った表裏両面に書かれた一文が、送られてきたのである。あの会場ではぐされた時とはまた異なる嬉しさが初老男の躰にしみじみこみ上げてきたのである。

氏とは、岡山に来てたぶん数年経った頃、琴浦町で行われたイベントのパネラーとして招かれたのが最初の出会い。

氏は、私が中世夢が原で企画したアフリカ音楽などに度々足を運んでくださり、私が中世夢が原を辞した後も、切れずのご縁が続いていた。企画者からシェイクスピア作品を音読する側に転じたその後の現在の私を、きちんと確認、認識してくれたこと、そのことが私にはひときわうれしかったのである。

裏面にもびっしりと書かれている、生きた文字である。

下る人生を生き粋と、老いゆく渦中のささやかな取組み、歩みを、豊かな想像力と感性で きちんと受け止めてくださった発露のアンケート、このアンケートは私に勇気を与える。これからの遊声塾の確かな指針となる。(このまま塾生が表現する力を身につけてゆけばいい)

 話を変える。人は生涯にどれほどの真の友情をはぐくむことが 可能であろうか。心からあの方に会いたいと思える人が、ひとりでもあれば、それはきっと得難き幸福なことであると、私は考える。

五十鈴川だよりに記して、M氏にはこの場を借りて深く感謝を伝える。シェイクスピアのおかげで、塾生のおかげで、真の意味で私はこの上ないいい形で氏と再会を果たすことができた。友遠方より来たり、ありがたきかな。

2019-07-08

シェイクスピア遊声塾来年の発表会の演目は【夏の夜の夢】に決まりました。

先週の水曜日、遊声塾の来年に向けての初レッスンが行われ、私としては9月くらいまでにゆっくりと演目を選ぶつもりでいたのだが、何と何とあっという間に塾生の意見の集約で、【夏の世の夢】に決まってしまった。

私としては全く異論はない。塾生全員、私も含め超多忙現代を生きている最中、遊声塾の塾生だからといって、それほどシェイクスピア作品に通暁しているというわけではない。

私はたまたま若いころシェイクスピアシアターという劇団に3年ほど在籍していたがために、運よくまったく知られていなかったほかの作品 を知ることができただけである。(何という幸運、あれがなかったら遊声塾はない)

だから私は考えた。年内、遊声塾のレッスン時間の中で、一幕か二幕ほかの作品を読む時間を持ちたいと思うのである。少しでも塾生がほかの作品を音読することで、年齢や時代と共に変化する、シェイクスピア作品の多様な豊かさの一端を知ってもらえたらとの思いである。
どんな夏の夜の夢になるのか本当に楽しみ

結果、循環しながら いろんな作品を読むことで、夏の夜の夢に対する取り組みの意識も、きっと深まってゆくに違いないとの確信が私にはある。

20代の終わりの数年間で、一回しか読んでなくて、あらすじもほとんど忘れてしまった作品も多くあるが、不思議と読んでいると思い出すのである。人間の脳はまったくもって不思議な器である。

400年も前、エリザベス朝時代にシェイクスピアという座付き芝居作家が創造した、愉快というしかない登場人物の魅力的なセリフ回しは、貧血気味超多忙現代人には息も絶え絶えではあるが、それでも 続けているとある日突然それらしく息切れせず言えたりするから、続けられるし楽しいのである。

せっかく遊声塾に参加しているのであるから、塾生には可能なら全作品を私と共に、音読してほしいのである。意味もなく全作品音読したら、絶対自信が自然とつくはずである。

俳優とは、声を出すことが好きな輩である。仲間と声を出しあうことが好きな輩である。声と声で交流する、それを見知らぬ誰かに聴いてほしいとの業を生きる輩である。

私は6名の塾生にとにかく自信を植え付けたいのである。そのために微力を尽くしたい、それこそが、初老男の夏の夜の夢である。

2019-07-07

【ベルの音が聞こえる】という青春物語に先生役で出演することになりました。

いきなりだが、今日は午前中初めて長島愛生園に行く。というのは市民手作りの映画に教頭先生の役での出演依頼があり、脚本を読んで引き受けることに決めたからである。なぜこのようなことになったのかを簡略に五十鈴川だよりに記しておく。

近所に住むH氏が昨年リア王の発表会に来てくださり、このような映画のオーディションがあるので是非受けてほしいとのお話があり、昨年暮れ参加し、結果このようなことになったのである。

くどくどと細かなことは端折る。監督が先日わざわざ会いに来てくださり、純粋な意欲が私に伝わり、これも他力の風が吹いてきたのだと受け止め、ハンセン病の方々のおもいを万分の一でもお役に立てるのであれば、これも何かのご縁、やることに 決めたのである。

 そのための第一歩、まずは長島愛生園に行くことにしたのである。世界は今も不条理というほかはないほどに、あらゆる差別や偏見がまかり通っているのが現実である。 悲しいかなこの己だって、そういう器としての限界を担っているのかも、という忸怩たる思いが、心の奥深くに眠っている。

そういうわけで、H氏に御同行願って、ともあれ長島愛生園を訪ね、役作りを始めたいと考えている。出番は多くはないのだが、とても重要な役なので、微力を尽くしたいのである。

岡山に移住しなかったら、まず長島愛生園を訪ねることもなかったろうし、遊声塾を始めなかったら、H氏との出会いもなかったろう。つまりは予期せぬ出来事なのである。だがこれもオーバーではなく運命である。

すべては昨日のブログに書いたが、いよいよのこれからの人生時間の重みを意識するときに、このように否応なく苦難の人生に追いやられた 側の人々を描く映画の出演依頼があるのを、今はただ肯定的に受け止めたいとの思いなのである。(残りの余白時間は無知を少しでも耕したい)

経験体験したものでないと、決してわからないであろう深遠な問題。そのことに想いをいたすと正直荷が重いのだが、監督が決めたことなのであるし、何より長島愛生園に定時制の高校があったなんてことも、私自身知らなかったし、その高校に全国から集った生徒さんたちの青春グラフィティの映画だと受け止めたのである。

このような高校があったことを知っただけでも、この映画に参加したいとの思いが湧いてきたのである。市民手作りの素人集団での映画とのことで、生活時間をやりくりしての撮影スケジュールに臨まなければならない。

果たしてどのようなことになるのやら、皆目現時点では想像もつかないが、手元にシナリオがあるので、それを入口にして想像力を広げ、御縁に対して微力を尽くしたいと考えている。


2019-07-06

池内紀著【カント先生の散歩】を読む。

土曜日起きたての朝、コーヒー片手にどこかまだ胡乱な体で、さあ何を書こうかと思案するいっときが、ささやかなわが愉しみとなってきたわが五十鈴川だよりである。

このようなことを書くと、ちょっと妻にたしなめられそうだから、表現が難しいのだが、最近もうすでに自分はこの世では8割がたおわったひとであるのだなあ、という自覚の深まりを覚えるのである。

誤解を与えそうだし、誤解を与えてもいいのだが、子育てを終えた時点で何か間あ一つの大きな役割は終えて、いよいよあと数年で現世的な役割をほぼ終え、もしその時五十鈴川だよりを書ける、書きたいという意欲が持続していれば、それはまたその時考えればいい、といった心境なのである。

 朝からこのようなことを書くと何やら意味深だが、来年は父(母はその2年前)が亡くなって20年である。まだ長女が10歳だったのである。あれから私は何回となく父母の墓前にまいっている。

 今はこの世に居なくなった両親とその後対話を交わし続けている自覚がある。だからなのかもしれない、その後私は不思議といいことずくめである。

とくに子育てがひと段落し、中世夢が原を早めに退職したりした後は、以前にもまして頻繁に故郷詣でを今も繰り返している。なぜそのようなことを繰り返しているのかは、自分でも言葉でもって伝えるのは難しいし、伝えようとも思わないが、一つだけいえるのは、気持ちが落ち着き不思議と物事が冷静に考えられるからである。

ほかにことさらの理由はない。最近気分は在家出家感覚というか、もう浮世を生きているのではなく、かぎりなくあの世とこの世の間をさまよっているかのような自分を感じる。

何度となく絶対矛盾を生きていると、この五十鈴川だよりに書いているが、現世でこれからやりたいことは、かなり焦点が絞れてきたし、そのことにこれからも情熱の残り火を費やすことにはやぶさかではないが、自分のいまだ知らない(ほんとうに無知を自覚する)過去の出来事に耳を費やすことに、有限なる時間を過ごしたいのである。

誰に理解されなくても、ただただ五十鈴川が流れる方向にしかゆけないように、自分もまた自分という小さき流れに身を任せたいとのである。

説明を追加
ところでこの数日【カント先生の散歩・池内紀著】読んでいる。全18章の14章までを読み終えたところ。偉大なる哲学者であるカントの名前を知らぬものは殆どいないと思うが、その生涯となると、私はほとんど何も知らなかった。

池内紀先生の御本で、その生涯のそのあまりにストイックな、つましい判を押したような シンプル極まる、静かで豊かな思考生活を知らされた。実に読みやすくわかりやすい文体で。池内紀先生はドイツ文学の泰斗であることは知っていたが、このような知識人のおかげで、あの難解な文章で知られる哲学者カントが、血の通った鉄人であったことを知ることができた。

カントは、1724年生まれ、1804年79歳で死去とある。ご関心がある方は一読をお勧めする。このような本に巡り合うと幸せである。良き本は想像力を痛く刺激する。

あの偉大なカントであれ、シェイクスピアであれ、万人に等しく死が訪れる、ならばいかに死を受容するのか、という根本命題をカント先生は、生涯かけて哲学の井戸を掘り続けた方なのであるということが、伝わってきた。

今日は早朝の声出しを終えたら、静かに半日図書館で時を過ごしたいと思う私である。

2019-07-03

これから数か月の間に、来年の発表会の作品を選びたいと考える。

ロミオとジュリエットの発表会を終えて、一週お休みし今夜は遊声塾のレッスンである。またもや来年に向けて新しい作品を選ばねばならないが、焦らずゆっくりとスタートしたい。遅くとも9月中には来年の演目を決めたいと考えている。

おもいを言葉で伝えるのはなかなかに至難であるが、私なりの現在のおもいを先ずは塾生にきちんと伝え出発したい。6人の塾生が成長し、なおかつ6人のメンバーの個性の意外性が、発見できるような作品が望ましいと考えている。

ハムレットにも挑戦したいが、塾生の各自が多面的に、やる気の意識のボルテージが難しい。遊声塾に参加されている方々の内面の思惑は私には知る由もないが、ともあれロミオとジュリエットの発表会を通して、私はこの6名の塾生の感性や、何よりも一番肝心な情熱の在り様に、一定の信頼感を持ち得ている。

だから、作品選びも含めて実にこれからの数か月が楽しみなのである。塾生には各々いろんなシェイクスピアの作品を読んで、この面々で情熱をもって 来年に向かえる作品を選んでほしいのである。
日本語で声を出しながら少しでも好奇心をもって学びたい

私が来年はこれをやるということもあるかもしれないが、ギリギリまで塾生の自主性にゆだねようと思うのである。それくらいこの面々はなかなかに私にとっては、実に面白い面々なのである。

何より、私の変幻自在の思い付きダメ出しにも、くらいついてくる根性が 備わっている。いまどきの時代の趨勢の中で、それにおぼれず必死に生きて生活し、あらがいながら、声を出している姿を見ていると、その各自の今を生きる存在の輝きを、シェイクスピアの登場人物に仮託して見つけたいと、おのれの能力を顧みず夢中になる私なのである。

シェイクスピア遊声塾を立ち上げて一番うれしいのは、やはり魅力的な作品の、魅力的な(現代にはもうほとんどいないかのような)登場人物をステレオタイプなキャスティングではなく、えーっと意外なキャスティングの中に、思わぬ発見が今回のロミオとジュリエットの発表会のようにあればと思うのだ。。

ともあれ、来年の発表会どのような作品になるのかは皆目わからないが、わたしを含めた7人が苦しくともよじ登りたくなりそうな作品にみんなで巡り合いたいと思っている。


 

2019-07-02

二日連続フルに働いた、夕方五十鈴川だより。

昨日に引き続いての、ちょっとだけ夕方五十鈴川だより。朝と夕方ではまるで体の感覚が違うのがよくわかる。朝の自分も夕方の自分も、同じ体なのであるが日々自分は違う、多分変化する身体をつまりは生きている、今日は今日の体、こころである。

さて、朝起きたらかすかに雨が降っていたので、頭を切り替えてほかのことに集中していたら、ほどなく雨が上がったのでいつもより遅い時間に仕事に出かけ、結果かすかに陽ざしが出てきたので、昨日に引き続いてフルに働いた。

こんなことは初めてである。梅雨時はなかなかに時間配分が難しいが、週に20時間働けばいいし、自分の判断ですべて任されているので、こんなに自己判断でやれるバイトは、生まれて初めてである。

はじめておおよそ10カ月が経過、ありがたいことに 、周りの初めてであった方々に暖かく接していただいていて、単細胞の私としてはすこぶる有難いのである。だから今やれる範囲で、きちんと責任を持って働きたいと思うのである。

職場でいただいたひまわり、すぐに妻が玄関に。
塾で教えるのせよ、働くにせよ、身体がきちんとベストの 状態でないと、良きレッスン、良き仕事は無理である。何度もかいているが、だから私はよく休むのである。寝起きがすっきりしないと、まず起きてすぐの五十鈴川だより、仕事から帰っての夕飯前の五十鈴川だよりなどは絶対に無理である。

だから、わずかな時間を大切に何か書こうと思う自分は、きっと調子がいいのだと思うことにしているのだから、自己偏愛ここに極まるといった、いよいよ本当に面の皮の厚い瘋癲老人の域に入りつつあるのではないかとの、思いもどこかでしている。

G20サミットも、トランプ大統領の電撃北朝鮮 訪問に関しての、メディアのこれでもかの繰り返し報道にも、瘋癲老人は冷ややかどこか醒めている。熱狂とか熱に浮かされたような、目まぐるしく右往左往するメディア報道には要注意である。

それより何はともあれ、このような世界的な貧困格差のひどさが、日々報道される最中、つましくもおいしくいただける食べ物があり、寝るところがあり、やることがあり、健康であるということの有難さ、足るを知るということはいかなることなのであるか。欲望を抑える欲望も必要ではないか。

ともあれ夕飯の時間のお呼びの聲、本日はこれにて。

2019-07-01

梅雨空天の下汗をかき、一人天と交信し声を放つ。

雨が続いてなかなか仕事というか、アルバイトができなかったのだが、7月1日、月曜日、雨が落ちてこなかったのでめったにないのだがフルに働いて、汗を書いたのですぐにお風呂に入り、さっぱりして夕飯前の、珍しい五十鈴川だよりである。

ほどほどに、この年齢でもやはり体を鍛えるというとオ-バーだが 、動かして汗をかくというのは気持ちがいい。青天井の下ただ一人体を動かしていると、脳の血のめぐりが良くなるというか、天と対話感覚に身体がなってきて、いろんなことが頭に浮かんでくるのが、肉体一人労働の喜びというか、醍醐味である。

だから、一人ごちるできるわけではないのだが、実に気に入っている初老男のアルバイト肉体労働なのである。野鳥とも交換できるし(頻繁に雉を見るし、今の季節だと雲雀他いろんな野鳥がいてすごくうれしい)雑草(ごめんなさい、私が名前を知らないだけ)の花のなんともいえぬ可憐さに、感動する自分がいる。

すこぶる刺激的なお二人の対談は初老を活性化する

そして、一人雲を眺めていると飽きない。天と自分の体が直結しているのがわかるのである。休憩時間、頭の中に残っている好きな言葉を意味もなく、歌うように一人朗読、周りに聴いている人がだれもいないのが、最高である。

井上陽水であはないが、青空ではなくても一人きりの何という心地よさ、やはり五十鈴川で体感したあの原風景の中で培かわれた感性は生涯を通して、消えることはないし、自分の体心に正直に生きてゆけることこそが、いよいよのこれからの大事なのであると、今更ながらに確認する。(仕事のない妻が夕飯を用意してくれている、何とありがたきかなである)

昼と夜があるなんて、なんて素敵な事でしょう。夜は疲れたわが体をゆっくりと休め余力があれば、ごろり横になり本など読んだりしながら過ごし、眠くなったら瞼を閉じ、再び陽水ではないけれど、夢の中へ行ってみたいと思う私である。

話は変わるが、今年も半年が過ぎた。残り半年の最初の日、ただ何か書きたかった五十鈴川だより、(墓参りに帰りたい、無事ロミオとジュリエットの発表会が終わったので)である。

ところで、昨日の音読輪読会参加者は私を含め6名、。一期一会、良き時間が流れた、本日はこれにて。