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2019-07-06

池内紀著【カント先生の散歩】を読む。

土曜日起きたての朝、コーヒー片手にどこかまだ胡乱な体で、さあ何を書こうかと思案するいっときが、ささやかなわが愉しみとなってきたわが五十鈴川だよりである。

このようなことを書くと、ちょっと妻にたしなめられそうだから、表現が難しいのだが、最近もうすでに自分はこの世では8割がたおわったひとであるのだなあ、という自覚の深まりを覚えるのである。

誤解を与えそうだし、誤解を与えてもいいのだが、子育てを終えた時点で何か間あ一つの大きな役割は終えて、いよいよあと数年で現世的な役割をほぼ終え、もしその時五十鈴川だよりを書ける、書きたいという意欲が持続していれば、それはまたその時考えればいい、といった心境なのである。

 朝からこのようなことを書くと何やら意味深だが、来年は父(母はその2年前)が亡くなって20年である。まだ長女が10歳だったのである。あれから私は何回となく父母の墓前にまいっている。

 今はこの世に居なくなった両親とその後対話を交わし続けている自覚がある。だからなのかもしれない、その後私は不思議といいことずくめである。

とくに子育てがひと段落し、中世夢が原を早めに退職したりした後は、以前にもまして頻繁に故郷詣でを今も繰り返している。なぜそのようなことを繰り返しているのかは、自分でも言葉でもって伝えるのは難しいし、伝えようとも思わないが、一つだけいえるのは、気持ちが落ち着き不思議と物事が冷静に考えられるからである。

ほかにことさらの理由はない。最近気分は在家出家感覚というか、もう浮世を生きているのではなく、かぎりなくあの世とこの世の間をさまよっているかのような自分を感じる。

何度となく絶対矛盾を生きていると、この五十鈴川だよりに書いているが、現世でこれからやりたいことは、かなり焦点が絞れてきたし、そのことにこれからも情熱の残り火を費やすことにはやぶさかではないが、自分のいまだ知らない(ほんとうに無知を自覚する)過去の出来事に耳を費やすことに、有限なる時間を過ごしたいのである。

誰に理解されなくても、ただただ五十鈴川が流れる方向にしかゆけないように、自分もまた自分という小さき流れに身を任せたいとのである。

説明を追加
ところでこの数日【カント先生の散歩・池内紀著】読んでいる。全18章の14章までを読み終えたところ。偉大なる哲学者であるカントの名前を知らぬものは殆どいないと思うが、その生涯となると、私はほとんど何も知らなかった。

池内紀先生の御本で、その生涯のそのあまりにストイックな、つましい判を押したような シンプル極まる、静かで豊かな思考生活を知らされた。実に読みやすくわかりやすい文体で。池内紀先生はドイツ文学の泰斗であることは知っていたが、このような知識人のおかげで、あの難解な文章で知られる哲学者カントが、血の通った鉄人であったことを知ることができた。

カントは、1724年生まれ、1804年79歳で死去とある。ご関心がある方は一読をお勧めする。このような本に巡り合うと幸せである。良き本は想像力を痛く刺激する。

あの偉大なカントであれ、シェイクスピアであれ、万人に等しく死が訪れる、ならばいかに死を受容するのか、という根本命題をカント先生は、生涯かけて哲学の井戸を掘り続けた方なのであるということが、伝わってきた。

今日は早朝の声出しを終えたら、静かに半日図書館で時を過ごしたいと思う私である。

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