若い頃いやというほどTVを見たせいか、これからの人生時間を考えると、有限なる時間をほかのことに使って生きたいといういう思いは、50歳を過ぎるころからにわかに強くなってきた。
やったことがなく、自信はないがあこがれていたようなことを、悔いなくチャレンジしたいと思うようになってから十数年経つ。
どんなことも、最低3年はやってみようと。その中の一つ韓国語の勉強も、仕事をしながら、我ながらよく続いたことの一つに数えられる。
夢が原退職を機に、塾を立ち上げたり、農の仕事を始めたりで、時間的にあれもこれもはできなくなったが、思いついたが吉日で、それなりに自分なりにやれるだけはやったというもいがある。
現在は、シェイクスピア を声に出すことと、農の仕事と、ささやかに学び続けることで、一日がことのほかに早く過ぎてゆくなかでの充実感を味わいながら生きている。
その充実感を持続するためには、きちんと睡眠をとらないといけない。だから体と相談しながら、どんなに見たい番組があっても、以前は無理して見ていたのだが、今は見なくなった。
身体が気持ちよくないと、どんなに愉しいことも私はやはり気持ちがよくない。体調がよくないと声も気持ちよくは出せないし、畑での労働も当たり前だが楽しくはなくなる。
すべてはよく動ける身体あっての物種だと、あらためて思い知る。だからなのだ、食生活をはじめあらゆることに気を使い、無理はしなくなりつつある自分が、漸くいる。
本を読むことも、ブログを書くことも、あらゆることの根本的な根気は、健康にやる気を持続できる身体あっての、物種だと思い知ったのである。(還暦後はことさらわがままに)
だからなのだと思う、あらゆる自分にとっての誘惑を、ことさらに制限するようになってきたのは。 今現在、心からやりたい、やれることにエネルギーを傾ける生活を心がけたいと思うのだ。
言うは易しだが、何とかぎりぎりのところを楽しめている自分を感じつつ生活している。
その波動は家族も感じるらしいから、いましばらくはこのままの流れでゆこうと考えている。
さて、長女の結婚報告会がおわり早10日。何やらゆるんだ感覚が私を襲う中、早朝と夕方は畑時間を楽しんでいる。(無理せず実働5~6時間くらい、ほかのことに4~5時間がちょうどいい)
母が種から育てたカボチャを植え(17本)、ほかに頂いたトウモロコシの苗(9本)と枝豆の苗(12本)、それにトマト(2本)、赤と黄色のピーマン(各1本)を雑草取りの合間に畑の端に植えた。
土と戯れる晩年時間はことのほか楽しいというほかはない。自主的な草取りは実に楽しいものだ。誰かに強制されるのではなく、自分の内側から湧き上がってくるやりたいことは格別だ。
一仕事おえ、帰って簡単な我流料理の昼食も楽しい。麺類が多いのだが、ふんだんに我が家の野菜(大根の葉、インゲン、サラダ菜、小松菜)やいただいたた新玉ねぎを使う、簡単この上ない昼食。まったく金がかからない。
なにせ、身体をひとしきり使ったあとの昼食だから、とにかくおいしい。外食なんかまったくする気にならない。
私は思考する、あらためて生きていることの幸せ、人はなぜ生きて、一体全体どこへ向かうのかと。
弱肉強食の歴史を思うとき、弱者は強者の論理に操られやすい。(もう戦争による弾薬武器なんかの経済論理に操られている時代はとうに終わった、敵を想定する論理。我々はすべてがつながっている。そのことを畑は私に教える。あらゆるパラダイムを変えないと地球が滅ぶ瀬戸際を、人類は生きている)
弱者は思考と行動で、何かをなさねば。考えることを放棄し、金のために耕作地を放棄しているうちに、身体を動かさなくなり、あらゆることが戦前のように決められて、取り返しのつかない愚を、同じ道を歩まされるのだろう。
そのためには、どうしたらいいのかも、元気な間は大人として、畑で雑草を抜きながら考え続けたい。
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