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2015-05-19

蔓バラが満開になり始めた朝に思う。

雨が上がり夜が明けてきた。普段なら即畑に直行するところだが、雨上がりなので畑がぬかるんでいるのでゆっくりと出かけようかと今考えている。

午前4時には起きた。2階の書斎でささやかに一仕事澄ませて、パソコンのある一階の部屋に降りてきてのブログタイム。

もうおそらく、何十回と書いているが、このなんとも言えない静寂な朝のひと時を私は好む。体に邪心がなく、睡眠が満ち足りて、まだ起ききっていないからだの胡乱な状態が私は好きなのである。

窓からの視界の先に 、妻の愛する庭の草花が、水分をたっぷりと含んで精気を放ち、わたしの目をやさしく愛でる。
今年も蔓バラが満開になりました。


家を建ててから丸15年が経つが、住む人たちの考えが丸ごと家の内外の雰囲気を醸し出す。

それは恐ろしいまでに、私たちの暮らしを反映する。

丹念に手入れされた庭は、素人作業にせよ、 やはりそれなりの姿でもって顕現する。

自然は厳しい。ちょっと手を抜くと、無残な姿に庭は変身する。

それは畑も同じこと、そして思う。自然の一部、人間であるわが体も同じことではないかと。

歳を重ねるということは、やがて体が思うようには動かなくなってくる、ということだ。

動かなくなるということは、自分の手入れができなくなり、自分自身も無残な姿をさらすということになることだ、と。

だからこそ、動けるいま現在のわが体の手入れを、気づいた時から可能な限り やっておいた方がいいと、私も50歳を過ぎるころから、無理し続けてきたわが体をいたわるようになってきたようには思う。

だが、無残な姿をさらすこともまたよし、という考えに私はくみする。枯れた葉は落ちるのが節理なのだから。

手入れしながら老いてゆき、やがては自然の摂理の中に還ってゆく、そのことを満願成就しつつ受け入れることができたなら、もう何をかいわんや、である。

だからこそその一点に向かって一日一日をと、五十鈴川は煩悩を抱え流れるのである。

最近ことのほか畑に行くのが楽しい。昨年11月に植えた玉ねぎが順調に育っているし、植えたいろんな野菜たちを眺めるのがなんとも言えない。

オーバーだが、手ごわい雑草との戦い も含めて、畑は命とのやり取りをする循環の場所なのだということを知らされる。私が倒れ誰も手入れできなくなっても、それはそれでいいのだ。

またもや、大いなるなにかのもとに、還ってゆくだけなのだから。だが人間である煩悩を抱えた私は、今しばらく畑時間を楽しませてくださいと、大いなる何かに祈るのだ。

何やら朝から思わぬことを書いてしまった、野暮だからこれ以上書くことは控える。

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