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2015-05-25

池澤夏樹氏の書評、武田蹉跌著【紋切型社会】を読んで思う。

まず一番最初に、岡さんコメントありがとう。私の晩年生活は、未だささやかな冒険生活をやめないというか、そういう性を生きられる今の暮らしをことのほかに楽しんでいる。

今の暮らしは、現時点でこれまで生きてきた生活の上にこそ、成り立っているという自覚が私にはある。だからなのだ、恥ずかしげもなく人様の前で、つましい幸福感があるなどと書けるのは。

さて、話はいきなり変わる。M新聞の書評を私が好きなのは、書評をされる方たちに、私の好きな方たちが多いということがまずある。

その中の一人が池澤夏樹氏である。勝手に私の先生の一人にしている方である。私は18歳から世の中に出て、生きるのに忙しいのと、本質的に遊ぶことが好きで学ぶことが苦手であったがために,今に至るも無知蒙昧である。

そのような私ではあるが、いささか遅きに失した感はあるにもせよ、歳を重ねるにしたがって、遊ぶこともさることながら、遊ぶように学ぶことが次第に楽しくなってきつつある。(無知というコンプレックスを今は楽しんでいる)

もっと書くなら、遊ぶことと学ぶことは私の中ではほとんど同じことに、境界がなくなりつつあるのだ。

私が大学に行かなかった理由は、学校での成績が悪かったことも起因しているが、大学というところは、学問を大きく学ぶ太い志を持った人がゆくところであると、田舎者の私は思っていたし、親に負担を強いてまで演劇を勉強したいとは口に出せなかったのだ。

話がそれた、その池澤氏が昨日の書評で取り上げた本は、武田砂鉄(蹉跌)著【紋切型社会】 である。(読みたくなった)

閉塞感極まる今の日本社会の風通しの悪さは、きっと私も含めた日本語言葉の表現の痩せ細りに如実に表れてきている来ているのではないかという認識が私にはある。

自己思考放棄、無意識マニュアル言語で事足りる、済ませてしまえる怖ろしさ。血の通わない言葉の垂れ流し。

言葉遣いの中にその人の人間性のすべてが現れる。自分のすべてといってもいい何かが。

だからブログを書くという行為は自分をある程度さらす覚悟がなかったら、まともな人間ならとてもではないが できない、とさえ思う。

あらゆる表現行為はどこか心の中にやましげな思いを抱えつつも、やむにやまれぬ思いに裏打ちされいるのだとおもう。その思いを表現する手段としての言葉の衰退は、人間そのものの衰退を如実に顕しているというほかはない。

人間は言葉を操り、母語(国語ではない)でもって思考する生き物である。その母語での生活が紋切型でほとんど足りるのであれば、何をかいわんや。何という寂しき内面世界。

私がシェイクスピアにすがり(あまりにも豊かな言語世界)声に出して読む塾を立ち上げたのも、あの翻訳だからこそ味わえる日本語の豊かな世界を 堪能することで、心身ともに健康に生きていたいと思うからである。

朝から予想外のブログになってしまったが、想像力に火が付くような言語、母語での自分なりの思考生活を大切にしないと、やたら理解不可能な言語を操る政治家や官僚たちが作成した文言に操られてしまうという、恐ろしいことになってゆくのではないかと、私ごときも危惧する。

五十鈴川は、ささやかに血が未だ流れておりますから、時を追いかけます。 真の言葉、池澤夏樹氏の文章は私に火をつける。



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