30数年ぶりに、かなり本格的に無謀承知で塾を立ち上げ、まるで時が逆周りするかのように再びシェイクスピアを声に出して読み始めて、早くも3年目に突入した。
私事きの塾にも、塾生が増えるにしたがってまるで年齢に逆らうかのようにというのか、若いころとはもちろん違う形で、シェイクスピアを読みたくなってきている自分がいる。
短い時間では推敲して文章が紡げないのだが、ブログ時間の中ではあるけれど吐露しておきたいのだ。
現在の自分のありのままの姿を、可能な限り生き生きと生きるために、私の父には囲碁があったが、私には古典としてのシェイクスピアを読むという 宝があると気づいたがためである。
私が日本語でシェイクスピアを読める一番ありがたいと思うことは、それぞれ日本語の言葉の達人たちが明治時代から、現在に至るも翻訳を続けていて、それが読めるということである。
時代が変わり、生活が変わるとかくも言葉は変わるのだということが実によくわかる。
まさに翻訳家は命がけでシェイクスピアの世界を日本語に移し替えているのだということが解り粛然とする。
目まぐるしく情報飛び交う時代ではあるが、普遍的な人間生活の大事は 余すところなくシェイクスピアがすでに書いていると、私には思える。
これからはいよいよもってシェイクスピアを声が出る間は、何度もは読んでいないほかの作品を声を出しながら読み続けてゆきたい。
(大きな声が出せなくなっても、一人てもぼそぼそとであれ 声が出せる間は出し続けたく思うのだ)
それともう一つ、なかなかかなわないのだが優れたシェイクスピア作品の舞台作品を見たいと急に最近思うようになってきた。なぜなのかは自分でもよくはわからないのだが。
それと、同じ作品を異なる翻訳家で 読むということを楽しめるのも、実に面白い。初めていま小田島訳ではなく、松岡和子さん役の【間違いの喜劇】読んでいるのだが、訳のタッチがことなっているし勉強になるし新鮮に読める。
とまれ、今夜は塾の日である。可能な限り新鮮に日本語の 言葉を大切に発したいと思う。
以前にも お話したことがあるような記憶もあるのですが
返信削除この作品 絶対のお薦めでございます。「塀の中のジュリアス・シーザー」
https://www.youtube.com/watch?v=AtM59aG7UA8