ゆっくりゆっくり雑草を手で引き抜いてゆくように、本を読み進める。以前も書いたが(私は本にもよるが)私は本を読むのが早くはない。
いささか矛盾するが、しゃべるのとは真逆である。そういうわけだから限られたまったく自由なひと時 、赤坂真理さんの本はじっくりと読み進めている。
私は考える。一人の人間が心血を注いで数年かけて書いた作品をあだやおろそかに簡単には読めない、と。
何事にもすべてはタイミングというものがあって、何十冊も読み続ける中で、自分にとっての大切な一冊というべき本に、20代、30代、40代、50代と幸せなことに私は出会い続けている。
だからなのだと思う。少年期、あれほど本を読まなかった私が晩年に向かうにしたがって本を読むようになったのは。
今、読むべき本がなかったら と考えるとぞっとする。それは自分がいないともいえるくらいに本を読むことは生きることと結びついている。
言論の自由(言葉)あればこそ、多様極まる多相(層)な森羅万象世界の豊かさをの一部を垣間見ることができる、言葉は想像力に火をつけ、感動を生む。
手軽に、限りなく内面の生成感覚が日常生活の中でも起こる。格安で、実に内面が活性化される。そのことを経験的に私は知っている。だから私には書物が手放せない。
精神の食べ物。噛めない書物にも出会うが、出会う年齢でのタイミング。高い山に挑むようにゆっくりと読み進む。だんだんかめるようになってくるから面白い。食べ物の嗜好だって変る。
変わらないのがおかしいのだと思う。自分のあずかり知らぬところで、なにがしかの読書体験により老いる中で、体が変化しているのだとしか思えない。
だから変化し続ける可能性のためにも、心と体が欲する本は、正直に読み続けねば、まさに私はもったいないと 考える。
何度も書いているが、日々の生活の中で知らないことを、謙虚に知覚してゆくということこそが、わたくしごときでも面白いのだ。
だからこそ、18歳から絶望せず今も生きていられるのだと思う。特にマイノリティ的な生き方を選択してきたこれまでの自分の人生の大部分を振り返るとき、 くりかえすが本がなかったと思うとぞっとするのだ。
話は変わるが、保坂正康さんという昭和史の専門家がおられる。その方が毎月一回、M新聞に昭和史のかたち、という連載をやっておられる。
この方のような方がおられるので、私は私なりにいろんな知らないことを虚心に学ぶことができる。
たまたま、昨日午後雨だったので、書評他新聞をまとめて4日分ゆっくりと読んでいたら、5月9日のこの方の文章が目に留まり、切り抜いたのだが、明治人の【荒尾精】というまっとうな軍人がおられたことを初めて知った。
あらためて信頼に足る方からの情報を自分で見つけてゆくことの、大切さを知らされた。
真の意味での大切なことは、そうは簡単には見つからない 。畑の雑草を手で根気よく抜いてゆくように日々を送らねばと、良き本は私に教える。
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