起きてまだ30分と立っていないが今朝はそんなに冷えてはいない、先ほどごみを出しに行ったので分かる。かなりの星が出ていて、まだ濡れている路上を眺めながら、さあ今日も一日始まるぞと、自分に言い聞かせた。
そして、おもむろにコーヒーの香りを書きながら、ドーナツを口に頬張りながら、パソコンを開いているというわけだ。
昨日雨が午後から上がっていたので、夕方とあるところにストーブの薪を調達に出かけた。働く場所の近くにうずたかく薪を積み上げている土場のようなところがあったので、持ち主に、少し可能なら、分けて頂けないかと交渉に出かけたのだ。結果はOK,そのようなわけでしばらくはまた、薪の心配なくストーブの温かさの恩恵を楽しめることになった。
一家の主としての薪の調達はささやかな主としての、わたしのつとめである。男というのはなにがしかのメンツのようなものに、(私の場合はとくに)辛くも支えられているところがあって、これだけは何とかして、手に入れる方法のようなことを、今後も考えてゆきたいと思っている。
やがてはお金で注達することになろうかとは思うが、今しばらくは健康も兼ねて、自分で体を動かし、なんとかあらゆる手段で調達したいと、楽しみとしての調達を考えている。
この薪ストーブは丸14年使っているが、このストーブが我が家の家族に果たしている効用は計り知れないものがある。妻も娘たちも、今では火をつけるのがかなり上手になっているし、何よりも理屈ではなく、薪ストーブのなんとも言えない暖かさを体感して知っている。
だから、妻も薪集めにはことのほか熱心である。昨日も仕事から帰ったばかりではあったが、すぐ着変えて、車から薪を下し、積むのを手伝ってくれた。ささやかな夫婦の共同作業。
夢が原では往復の通勤時間がとにかく長かったので、普段仕事を終えてから家のこまごまとしたことをすることがなかなかかなわなかったのだが、今は普段夕方かなり家のことがやれるので、妻はことのほか喜んでいる。
私もまた、俗に言う家事仕事を、できる限りやるように心がけている。買い物、料理、洗い物、かたずけ、掃除、洗濯、干したものを取り入れたたむ、主婦の仕事は限りなくある。どんなことであれ、妻の負担を減らしたく思う。
そのために、本を読む時間が少なくなっても構わない、人間は変化する。
2014-01-31
2014-01-30
降ってわいた雨のお休み、丸谷才一さんの・別れの挨拶を読む
雨が降ると、降ってわいたように、私の時間となる、つまり仕事がお休みになったのである。フルに働いていればこそのお休みのありがたさである。晴耕雨読とはよく言ったものだと思う。そこはかとなくかすかに春の訪れを感じさせるかのような、今朝の我が家の庭の気配である。一人静かに雨の煙るのを感じながら過ごすのも、これまた一興、いとおかし。
夕方までの、まったくの一人自由時間。私は、本さえあればまったく退屈しない性格である。本は私にとっては、精神の自由な旅ができるので、読んでいる間あれやこれや刺激を受け、心が活性化する。読むのは遅いが、楽しさ極まる。
へーっという、知的刺激があればこその、動かぬ読書旅である。本を片手に、実際の旅にいつでも出かける準備も兼ねている。その時のためにも、ちりも積もるようにわずかな時間を大切に、本を読まねば人生もったいないと、心から思う。
今日これから、読もうと思っている本は、おととしお亡くなりになった丸谷才一さんの・別れの挨拶・おなくなりになる直前までの、そのあまりにも見事な生き方、作家であり批評家、文学世界のあまりな博覧強記、爪の垢ほどしか読んではいない私でさえ、立派な方お仕事をされた方だと感じ入る。
大人(たいじん)的、ユーモア感覚とエスプリ、鋭い諧謔精神は、日本的な湿気が過剰な風土の中では、ちょっと異彩を放っておられたのではないかと、無学文盲の私だが、感じる。
毎日新聞の書評欄を今もずっと、(本を読む時間が限られた人生を送っている私が)楽しみに読んでいる私だが、書評を文学にまで高められた丸谷さんのお仕事のおかげである。
視野の広い、信頼できる水先案内人のような方が、いろんな分野にいてくださらないと、私のような輩は、どこかささやかに、不安を感じる。だから丸谷さんが選んだ書評氏達の推薦する本で、私はかなりの本を、この10年くらい読んできた。皆私の勝手なの先生たちである。とても読み切れないから、これはと思う書評は切り抜いている。(そんなノートがずいぶんたまった)
今後、これからの雨の日、まとまった時間は、繰り返し読むに)耐える本を周りに置いて、本を紐解き、心の滋養にしたいと思う。
夕方までの、まったくの一人自由時間。私は、本さえあればまったく退屈しない性格である。本は私にとっては、精神の自由な旅ができるので、読んでいる間あれやこれや刺激を受け、心が活性化する。読むのは遅いが、楽しさ極まる。
へーっという、知的刺激があればこその、動かぬ読書旅である。本を片手に、実際の旅にいつでも出かける準備も兼ねている。その時のためにも、ちりも積もるようにわずかな時間を大切に、本を読まねば人生もったいないと、心から思う。
今日これから、読もうと思っている本は、おととしお亡くなりになった丸谷才一さんの・別れの挨拶・おなくなりになる直前までの、そのあまりにも見事な生き方、作家であり批評家、文学世界のあまりな博覧強記、爪の垢ほどしか読んではいない私でさえ、立派な方お仕事をされた方だと感じ入る。
大人(たいじん)的、ユーモア感覚とエスプリ、鋭い諧謔精神は、日本的な湿気が過剰な風土の中では、ちょっと異彩を放っておられたのではないかと、無学文盲の私だが、感じる。
毎日新聞の書評欄を今もずっと、(本を読む時間が限られた人生を送っている私が)楽しみに読んでいる私だが、書評を文学にまで高められた丸谷さんのお仕事のおかげである。
視野の広い、信頼できる水先案内人のような方が、いろんな分野にいてくださらないと、私のような輩は、どこかささやかに、不安を感じる。だから丸谷さんが選んだ書評氏達の推薦する本で、私はかなりの本を、この10年くらい読んできた。皆私の勝手なの先生たちである。とても読み切れないから、これはと思う書評は切り抜いている。(そんなノートがずいぶんたまった)
今後、これからの雨の日、まとまった時間は、繰り返し読むに)耐える本を周りに置いて、本を紐解き、心の滋養にしたいと思う。
2014-01-29
雑巾がけをしながら、心と体の重心を低くする生活を心懸ける
50代の半ばころからだと思うが、私は正座したり胡坐をかいたりするような生活をつとめて増やすような生活を心懸けている。ご飯は椅子だが、一人の時は座って食することもある。
高校生までは、家で家族そろって座って食事をしていた。年とともに、幼少のころ過ごしていた暮らしに、限りなく原点帰りというのか、回帰というのか、そういうライフスタイルに私の場合、なりつつある。
いつかも書いたが、時折父が来ていた丹前に夕飯前、着変えたりする。何かと洋服と比べると不便、動きにくくなるという弱点はあるが、その不便さがまた、心地いいということも、だんだんと年を重ねてくると感じられてきた。
何よりも、(今も正座して書いている)重心が低くなるので、精神が安定するのである。足が痛くなると、胡坐にし、へそを突き出すようにして、なるべく背筋を伸ばすように意識する。背中が俗に硬くなってきているのだが、立っているよりも、座った方が背中を身近に感じることができる。
両肘を机に立てたりして、しばし思案することもできる。もちろん習字は座ってである。つくずく思う、我々の暮らしは、重心が高くなり続け、生活に落ち着きがなくなってきたことが分かる。
気付いたところから少しずつライフスタイルを変えたいと、還暦を過ぎてからことさらに思うようになってきつつある。ほんのわずかな細部のこまごまとしたことを、きちんと意識してやれるようになりたいと思うのだ。
だってようやくやれる心の余裕のようなものが私の中に生まれつつあるからだ。その中でこの1年私が意識的に楽しんでやっているのが、前にも書いたが、雑巾がけをするということがある。毎日ではないが、休日は必ずやっている。
隅々にそっとたまっている、綿ぼこりを拭き取るのは、もはや快感になりつつある。身体が重く、気が進まない時も、やっていると自然に面白くなる。そういう意味では、私は自分で自分をあまり信用していない。
自分で自分を気分よくさせてゆく、のせてゆく工夫のようなことが肝要なのだと、思いい知る。わずか30分もやると、空間がさっぱりと引き締まり、自分自身の精神も軽くなり、いろんなことがスムースに流れだす。
帰ってきた妻が、部屋がきれいだととても喜ぶ。トレーニングジムに通うヒトはとても増えているらしいが、掃除は私の体のトレーニングだけではなく、心のトレーニングでもある。もちろんお金も要らない。
体操も、声を出すことも自分の体と、ともあれ遊んでみる。そのことの大事を年とともに感じ始めている。当たり前であることがいかに当たり前ではなく、複雑な心と体の塩梅いで成り立っているのかを思い知るのだ。
体がすっきり気持ちいいと、当たり前だが心も気持ちいい。そういう具合に自分で日々の暮らしをできるだけお金に頼らず、整えてゆくことを心懸けたい。可能な限り他者の手を煩わせることなく、母のようにかくありたいものだ。
高校生までは、家で家族そろって座って食事をしていた。年とともに、幼少のころ過ごしていた暮らしに、限りなく原点帰りというのか、回帰というのか、そういうライフスタイルに私の場合、なりつつある。
いつかも書いたが、時折父が来ていた丹前に夕飯前、着変えたりする。何かと洋服と比べると不便、動きにくくなるという弱点はあるが、その不便さがまた、心地いいということも、だんだんと年を重ねてくると感じられてきた。
何よりも、(今も正座して書いている)重心が低くなるので、精神が安定するのである。足が痛くなると、胡坐にし、へそを突き出すようにして、なるべく背筋を伸ばすように意識する。背中が俗に硬くなってきているのだが、立っているよりも、座った方が背中を身近に感じることができる。
両肘を机に立てたりして、しばし思案することもできる。もちろん習字は座ってである。つくずく思う、我々の暮らしは、重心が高くなり続け、生活に落ち着きがなくなってきたことが分かる。
気付いたところから少しずつライフスタイルを変えたいと、還暦を過ぎてからことさらに思うようになってきつつある。ほんのわずかな細部のこまごまとしたことを、きちんと意識してやれるようになりたいと思うのだ。
だってようやくやれる心の余裕のようなものが私の中に生まれつつあるからだ。その中でこの1年私が意識的に楽しんでやっているのが、前にも書いたが、雑巾がけをするということがある。毎日ではないが、休日は必ずやっている。
隅々にそっとたまっている、綿ぼこりを拭き取るのは、もはや快感になりつつある。身体が重く、気が進まない時も、やっていると自然に面白くなる。そういう意味では、私は自分で自分をあまり信用していない。
自分で自分を気分よくさせてゆく、のせてゆく工夫のようなことが肝要なのだと、思いい知る。わずか30分もやると、空間がさっぱりと引き締まり、自分自身の精神も軽くなり、いろんなことがスムースに流れだす。
帰ってきた妻が、部屋がきれいだととても喜ぶ。トレーニングジムに通うヒトはとても増えているらしいが、掃除は私の体のトレーニングだけではなく、心のトレーニングでもある。もちろんお金も要らない。
体操も、声を出すことも自分の体と、ともあれ遊んでみる。そのことの大事を年とともに感じ始めている。当たり前であることがいかに当たり前ではなく、複雑な心と体の塩梅いで成り立っているのかを思い知るのだ。
体がすっきり気持ちいいと、当たり前だが心も気持ちいい。そういう具合に自分で日々の暮らしをできるだけお金に頼らず、整えてゆくことを心懸けたい。可能な限り他者の手を煩わせることなく、母のようにかくありたいものだ。
2014-01-28
貧困や、あらゆる困難な時代の到来に向かい合う勇気を養いたい朝
いきなりでごめんなさい。昨夜TVで10代の女性や、シングルマザーのとある現実に迫った現実番組をたまたま夕飯を終え見ました。
低賃金で、二つも三つも掛け持ちでアルバイトし働いても10万円くらいにしかならないという、なんともはや、厳しい現実。
10代や、20代の、これからの時代を担う未来の若い女性たちの、ある種の貧困層の(自分達一仕事終えた世代のことではなく)置かれている現実に対して、痛みを伴う感覚が私を襲った。
いろんな問題が、社会に起きていてるのだ。100年以上も前に石川啄木は働けど働けど、我が暮らしは、楽にならずとうたっているが、今もまたそのような時代が続いているのだ。
一部のほんの一握りの人たちが、世界の富を独占し、多くの人たちが貧困にあえぐなんともはや嘘寒い構造に、かなりの人たちは、おかしいと気づいているはずだが、おかしい、なんとかならないかと、声をあげる人の少なさは、これまた寂しい。
難しいことではないと私は考える。困っている人がいたら手を差し伸べる、余裕のある社会が豊かな社会といえるのではないかと、私など考える。ブログで書くことくらいしかできなくてもだ。
私自身、18歳で世の中に出て、なんとか生きることができているのは、いろんな方々の、家族をはじめ友人知人の、支えが在るからである。周りには困窮の人々の社会、塀に守られ、銃に守られ自分たちはぬくぬく豪奢な生活なんてのは、私には薄気味悪い。それで楽しいという人の気がしれない。
(話がそれるが、ヒトは他者があってこそ、存在するのである。その他者たちを思いやらない、やれない、自分たちの側のことしか考えない、戦争をはじめとする、想像力的精神の荒廃は、あまねく先進国の支配者の上層部を覆っているのではないかと私など凡夫は時折暗澹としてしまう。)
そういう支えが身の回りにないというのは、なんともはや痛ましい。心なき時代の到来は、社会をますます、生き苦しくし、負のスパイラルに向かっているように思えてならない。だが、おこったりあきらめたりしてはならないと、私は考える。
怒ったり、あきらめたりしたら相手の思うつぼではないか、そこは知恵と勇気を持って、ジャンバルジャンのように考えるのだ。私ごときだってあきらめず、しつこくささやかな器で今も考えているからこそ生き延びているのだ。
物事を複雑に考えてはならないと私が考える。単純に考えればいいというのが私の考えだ。複雑に考えたら、うつ病になるか、自殺に追い込まれてしまう。繰り返すが相手の思うつぼである。
チャップリンが言っている、友人と勇気と少々のお金。健康で頑健な体を培い、考える力と勇気をもたないと長いものに巻かれてしまう、私たちの世代だってうかうかはしていられない。
低賃金で、二つも三つも掛け持ちでアルバイトし働いても10万円くらいにしかならないという、なんともはや、厳しい現実。
10代や、20代の、これからの時代を担う未来の若い女性たちの、ある種の貧困層の(自分達一仕事終えた世代のことではなく)置かれている現実に対して、痛みを伴う感覚が私を襲った。
いろんな問題が、社会に起きていてるのだ。100年以上も前に石川啄木は働けど働けど、我が暮らしは、楽にならずとうたっているが、今もまたそのような時代が続いているのだ。
一部のほんの一握りの人たちが、世界の富を独占し、多くの人たちが貧困にあえぐなんともはや嘘寒い構造に、かなりの人たちは、おかしいと気づいているはずだが、おかしい、なんとかならないかと、声をあげる人の少なさは、これまた寂しい。
難しいことではないと私は考える。困っている人がいたら手を差し伸べる、余裕のある社会が豊かな社会といえるのではないかと、私など考える。ブログで書くことくらいしかできなくてもだ。
私自身、18歳で世の中に出て、なんとか生きることができているのは、いろんな方々の、家族をはじめ友人知人の、支えが在るからである。周りには困窮の人々の社会、塀に守られ、銃に守られ自分たちはぬくぬく豪奢な生活なんてのは、私には薄気味悪い。それで楽しいという人の気がしれない。
(話がそれるが、ヒトは他者があってこそ、存在するのである。その他者たちを思いやらない、やれない、自分たちの側のことしか考えない、戦争をはじめとする、想像力的精神の荒廃は、あまねく先進国の支配者の上層部を覆っているのではないかと私など凡夫は時折暗澹としてしまう。)
そういう支えが身の回りにないというのは、なんともはや痛ましい。心なき時代の到来は、社会をますます、生き苦しくし、負のスパイラルに向かっているように思えてならない。だが、おこったりあきらめたりしてはならないと、私は考える。
怒ったり、あきらめたりしたら相手の思うつぼではないか、そこは知恵と勇気を持って、ジャンバルジャンのように考えるのだ。私ごときだってあきらめず、しつこくささやかな器で今も考えているからこそ生き延びているのだ。
物事を複雑に考えてはならないと私が考える。単純に考えればいいというのが私の考えだ。複雑に考えたら、うつ病になるか、自殺に追い込まれてしまう。繰り返すが相手の思うつぼである。
チャップリンが言っている、友人と勇気と少々のお金。健康で頑健な体を培い、考える力と勇気をもたないと長いものに巻かれてしまう、私たちの世代だってうかうかはしていられない。
2014-01-27
自然には全く無駄がなく、静かに美しく存在している
他愛もないことではあれ、長いこと書き続けると、これは本当に自分が書いたのか、と思うことが、たまにだがある。
昨日もそうだが、書いているうちに無意識に何かが文章を紡いでくれるような感覚が生成されてくるのである。よそ行き感覚で、今朝のの感覚を確認するという思いでつづっているが、何とはなしに書き終えると、素直にやはり嬉しく、オーバーに言えば、今日もまた新鮮に生きられるような感覚が取り戻せる気がするのだ。
何日も書かない日もある。内なる感覚が満たされないと、私は文章が書けない。何よりも書くという行為は、自分との内なる対話となってきつつある。書くことで生きている今が、世界が、より新鮮に感じらてるように思える。
そしてそれは、五十鈴川だよりになってから、より顕著になってきている。書けない日は、書く時間ではなく、読む時間になっていることが多い。書くためには、読まなくてはいけない。
読むという行為なくして、書くという行為は私の場合成立しない。限られた現世時間に、膨大な他者の、素晴らしい遺された文章に触れるということは、日々を生きなおす意味で、ご飯をたべるように肝要なことである。
時代の表層的な流行や、趨勢に流されることなく、危うい自分という存在を、懐疑的にしっかりと見つめるという時間を、一日のうちにわずかではあれ持ち続ける意志力を持たないと、私のように流されやすい弱い存在は、すぐに流されてしまう。
あらゆる情報があふれる時代、本当に自分にとって生きてゆくために必要な、根源的な情報を、見極めるための思考訓練をしないと、いけないという感覚が、とくに3・11以後私に起きている。
私のなかの意識のパラダイムがよりくっきり変わってきたのである。この奇跡の惑星を破壊するほどの経済発展幻想に、私は数十年前おさらばして東京から岡山に移住した。(原子力事故は、やはり起きた)。パンデミックな状況になりそうなところから一日でも離れて、娘を育てたいと思ったのである。
はなはだ個人的に、家族とともにささやかな幸福を求める覚悟を決、あれから22年が過ぎました。私の決断は、今のところ幸を得ましたが、世の中はますます巧妙複雑魑魅魍魎化し、人類的意識のカオス化は進んでいるという気がしています。世界はかろうじて続いているというのが、私の偽らざる認識である。
話は変わります、先日新聞に田中投手のヤンキースとの高額契約の記事の隣に、時給400円に満たない仕事を余儀なくされていた(詳しくは読んでいないのですが)労働者の記事が掲載されていました。この世のなかの摩訶不思議な、構造、仕組みはな辺にあるのか。
不条理きわまるおかしな、過労死するまで働(あるいは働く)かされるおかしな仕組みに対して、声をきちんとあげる大人の少なさは、あまりにもさみしすぎると言わざるをえない。命のあってこその世界、人生。ハイテク無人機で罪のない方々まで巻き込んでヒトがヒトを殺すなんてニュースに対して何も胸の内に感じないのなら、あまりの想像力の欠如に、、、空しさが。(自分はそうはなりたくありません)、自分が殺されるということを、想像する力のあまりの痛みのなさに。
この一年、一区切り、私はかなりのモノを整理し、生きなおすために、一区切り捨てました。(どうしても捨てられない手紙やポスターなどは遺し)、捨てる、何かを絶たないと、やはり新しい出会いも生まれない。捨てたからこそ、農の仕事(土に)に出会えたのだと思っています。
生きているから世界は存在する。自然には全く無駄がなく静かに、眼の前に存在しています。限りなくシンプルに、自然の声に耳をそばだてる訓練をしたいと思う、私です。夜が明けてきました。
昨日もそうだが、書いているうちに無意識に何かが文章を紡いでくれるような感覚が生成されてくるのである。よそ行き感覚で、今朝のの感覚を確認するという思いでつづっているが、何とはなしに書き終えると、素直にやはり嬉しく、オーバーに言えば、今日もまた新鮮に生きられるような感覚が取り戻せる気がするのだ。
何日も書かない日もある。内なる感覚が満たされないと、私は文章が書けない。何よりも書くという行為は、自分との内なる対話となってきつつある。書くことで生きている今が、世界が、より新鮮に感じらてるように思える。
そしてそれは、五十鈴川だよりになってから、より顕著になってきている。書けない日は、書く時間ではなく、読む時間になっていることが多い。書くためには、読まなくてはいけない。
読むという行為なくして、書くという行為は私の場合成立しない。限られた現世時間に、膨大な他者の、素晴らしい遺された文章に触れるということは、日々を生きなおす意味で、ご飯をたべるように肝要なことである。
時代の表層的な流行や、趨勢に流されることなく、危うい自分という存在を、懐疑的にしっかりと見つめるという時間を、一日のうちにわずかではあれ持ち続ける意志力を持たないと、私のように流されやすい弱い存在は、すぐに流されてしまう。
あらゆる情報があふれる時代、本当に自分にとって生きてゆくために必要な、根源的な情報を、見極めるための思考訓練をしないと、いけないという感覚が、とくに3・11以後私に起きている。
私のなかの意識のパラダイムがよりくっきり変わってきたのである。この奇跡の惑星を破壊するほどの経済発展幻想に、私は数十年前おさらばして東京から岡山に移住した。(原子力事故は、やはり起きた)。パンデミックな状況になりそうなところから一日でも離れて、娘を育てたいと思ったのである。
はなはだ個人的に、家族とともにささやかな幸福を求める覚悟を決、あれから22年が過ぎました。私の決断は、今のところ幸を得ましたが、世の中はますます巧妙複雑魑魅魍魎化し、人類的意識のカオス化は進んでいるという気がしています。世界はかろうじて続いているというのが、私の偽らざる認識である。
話は変わります、先日新聞に田中投手のヤンキースとの高額契約の記事の隣に、時給400円に満たない仕事を余儀なくされていた(詳しくは読んでいないのですが)労働者の記事が掲載されていました。この世のなかの摩訶不思議な、構造、仕組みはな辺にあるのか。
不条理きわまるおかしな、過労死するまで働(あるいは働く)かされるおかしな仕組みに対して、声をきちんとあげる大人の少なさは、あまりにもさみしすぎると言わざるをえない。命のあってこその世界、人生。ハイテク無人機で罪のない方々まで巻き込んでヒトがヒトを殺すなんてニュースに対して何も胸の内に感じないのなら、あまりの想像力の欠如に、、、空しさが。(自分はそうはなりたくありません)、自分が殺されるということを、想像する力のあまりの痛みのなさに。
この一年、一区切り、私はかなりのモノを整理し、生きなおすために、一区切り捨てました。(どうしても捨てられない手紙やポスターなどは遺し)、捨てる、何かを絶たないと、やはり新しい出会いも生まれない。捨てたからこそ、農の仕事(土に)に出会えたのだと思っています。
生きているから世界は存在する。自然には全く無駄がなく静かに、眼の前に存在しています。限りなくシンプルに、自然の声に耳をそばだてる訓練をしたいと思う、私です。夜が明けてきました。
2014-01-26
妻のお誕生日に見た、たとえようもない母の菩薩のような笑顔
書く方は、気軽に書けるのですが、読むほうはこのような勝手感覚でしかないような拙文をはたして読んで楽しいのかどうかと、たまに考えてしまします。下手な考え休むに似たりともいいます。これがどのような意味なのかは、まるで深く考えたこともないのですが。
考えなくてはいけない、考えすぎてもいけないとの例えかもしれないくらいに、脳天気に考えています。何やらつづりたくなるという、この我がままなる自由感覚は、私にとっては何はなくとも、大切なひとときになりつつあります。
ところで週に5日働きますと、本当に週末が楽しみです。今日、明日は仕事がお休みなので、朝いつにもまして、ゆっくりとブログが書ける、ささやかな幸福感に包まれます。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。この往還がやはりいいのです。
さて、以前の私とは異なり、最近仕事以外ほ、とんど家から出かけなくなくなりつつある、私の暮らしです。そのことはあながち年齢のせいだけではないような気もしています。普段の暮らしの範囲の中では、何やら私が思う面白い出来事が限りなく少ないからです。
いろんな催しや、イベントは限りなく行われています、が、私の感性がおそらく時代の趨勢に対してそぐわなくなってきているからなのだと、私自身は認識しています。以前の私と異なり、そのような場に出かけなくても、それ以上にやりたいことや、やらねばならぬことが増えてきて、何やら生活そのものを、根底から変えつつあるからだと思います。
話は変わり、先日妻の誕生日で、母も含め家族4人で珍しく外食しました。妻には私のことはあまり書かないようにと、くぎを刺されているのですが、これからは折々ゆっくりと自然に書けるときに書いておきたいとの思いもしてきつつあります。
以前も書きましたが、これからは夫婦で過ごす時間が増えます。子育てがすんでから後のこれからは、お互いにまた新たな意識の転換、あらたな時間の過ごし方が始まります。おそらく数年もしないうちに、予想もつかないようなことが起こってくるような気がします。
映画のタイトルのように、時は止まることなくながれ、そして人生は続いてゆく。だからこそ面白い。ハラハラドキドキどんでん返しの人生。我が家の要である80歳の母が、珍しくワインを飲み、しみじみと、嗚呼幸せと口に出しました。
戦後、家庭を持ち、子育てをし、孫の成人までを見届け、娘のささやかなお誕生会での母の幸せそうな顔を、私は眼底にやきつけました。
もう私には、この母しか親がいないのですが、この母のあまりにも普通のモノの見方や考え方は、しきりに私にこれまでの私の生き方の方向転換を迫ってきつつあります。だからだと思います、私があまり家から出かけなくなリつつあるのは。
母が元気なうちに、いろんなことを教わっておかなくてはとの思いがするのです。そのためには可能な限り、一緒の時間を過ごし、いろんな話をしておかなくてはと思うのです。
この二日お泊りに来て、いろんな話をストーブの周りでしたのですが、少女時代の話、西大寺の昔の話、同じような話も聞くのですが、何度聞いても初めて聞くということが肝要です。母は昔の話を聞いてくれるだけで嬉しいのです。
こんなにもゆっくり話ができるのは、あらゆる意味で私に余裕ができたからです。18歳から親元を離れ、世の中に出た私は、実の両親とはゆっくりとした時間を持てる機会があまりにも少なすぎました。そのことが悔いになって残っています。
私の妻と母のなかの良さは信じられぬくらいの、母と娘の強いきずなを感じます。このような母のようなヒトに育てられた娘だからこそ、私のような輩とも結婚するという、広い海のような心の持ち主に育ったのかもしれません。
これ以上書く野暮は控えたく思いますが、ともあれ妻のお誕生会は、私にいろんな思いを抱かせ、一杯のグラスのビールで、幸せな時間となりました、帰りは娘が運転してくれました。
考えなくてはいけない、考えすぎてもいけないとの例えかもしれないくらいに、脳天気に考えています。何やらつづりたくなるという、この我がままなる自由感覚は、私にとっては何はなくとも、大切なひとときになりつつあります。
ところで週に5日働きますと、本当に週末が楽しみです。今日、明日は仕事がお休みなので、朝いつにもまして、ゆっくりとブログが書ける、ささやかな幸福感に包まれます。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。この往還がやはりいいのです。
さて、以前の私とは異なり、最近仕事以外ほ、とんど家から出かけなくなくなりつつある、私の暮らしです。そのことはあながち年齢のせいだけではないような気もしています。普段の暮らしの範囲の中では、何やら私が思う面白い出来事が限りなく少ないからです。
いろんな催しや、イベントは限りなく行われています、が、私の感性がおそらく時代の趨勢に対してそぐわなくなってきているからなのだと、私自身は認識しています。以前の私と異なり、そのような場に出かけなくても、それ以上にやりたいことや、やらねばならぬことが増えてきて、何やら生活そのものを、根底から変えつつあるからだと思います。
話は変わり、先日妻の誕生日で、母も含め家族4人で珍しく外食しました。妻には私のことはあまり書かないようにと、くぎを刺されているのですが、これからは折々ゆっくりと自然に書けるときに書いておきたいとの思いもしてきつつあります。
以前も書きましたが、これからは夫婦で過ごす時間が増えます。子育てがすんでから後のこれからは、お互いにまた新たな意識の転換、あらたな時間の過ごし方が始まります。おそらく数年もしないうちに、予想もつかないようなことが起こってくるような気がします。
映画のタイトルのように、時は止まることなくながれ、そして人生は続いてゆく。だからこそ面白い。ハラハラドキドキどんでん返しの人生。我が家の要である80歳の母が、珍しくワインを飲み、しみじみと、嗚呼幸せと口に出しました。
戦後、家庭を持ち、子育てをし、孫の成人までを見届け、娘のささやかなお誕生会での母の幸せそうな顔を、私は眼底にやきつけました。
もう私には、この母しか親がいないのですが、この母のあまりにも普通のモノの見方や考え方は、しきりに私にこれまでの私の生き方の方向転換を迫ってきつつあります。だからだと思います、私があまり家から出かけなくなリつつあるのは。
母が元気なうちに、いろんなことを教わっておかなくてはとの思いがするのです。そのためには可能な限り、一緒の時間を過ごし、いろんな話をしておかなくてはと思うのです。
この二日お泊りに来て、いろんな話をストーブの周りでしたのですが、少女時代の話、西大寺の昔の話、同じような話も聞くのですが、何度聞いても初めて聞くということが肝要です。母は昔の話を聞いてくれるだけで嬉しいのです。
こんなにもゆっくり話ができるのは、あらゆる意味で私に余裕ができたからです。18歳から親元を離れ、世の中に出た私は、実の両親とはゆっくりとした時間を持てる機会があまりにも少なすぎました。そのことが悔いになって残っています。
私の妻と母のなかの良さは信じられぬくらいの、母と娘の強いきずなを感じます。このような母のようなヒトに育てられた娘だからこそ、私のような輩とも結婚するという、広い海のような心の持ち主に育ったのかもしれません。
これ以上書く野暮は控えたく思いますが、ともあれ妻のお誕生会は、私にいろんな思いを抱かせ、一杯のグラスのビールで、幸せな時間となりました、帰りは娘が運転してくれました。
2014-01-23
小さき贅沢、ドリームオブパッション感覚を晩年も貪欲に。
すみません今朝は写真がなかったので娘の後ろ姿 |
昨夜遊声塾のレッスンを終え家に戻り普段より、ずいぶん遅く床に就いたのだが、いつもどおりに眼が覚めなにやら綴りたい自分がいる。夢が原を退職したら、悠々自適、読書三昧の日々にあこがれていた自分だが、自己自省も含めながら、今しばらく強烈に働きたくなった。
ただ、今もって隠居という響き、生き方にはどこかしら惹かれる自分がいる。夢が原時代とは異なって、うまく言えないが、自分は基本的にサンナンという会社で働いてはいるが、限りなく気分は隠居しているような、感じなのである。何やら突き抜けた感覚。世の中のあれやこれやを、どこか遠くの彼方から眺めているかのような。
現世の中で生きてはいるものの、限りなく現世的には生きていないかのような。しがらみ、その他一切から、何やらとても、自由な感覚で生きている己を感じている。だからブログも自然とそのような感じで、自在に気分任せである。
とはいうものの生身の人間であるから、そうは問屋が卸さないのが浮世の定めだが、ここ、と、あそこを、自由自在に行き来するような感覚が以前よりは少しずつましててきているのを感じつつある。
だがその感覚は、油断するとすぐ逃げてしまう。油断大敵感覚なのである。昨日遊声塾に出かける前、かなり体が重く、レッスンが少し不安だったのだがいざ始まったら、疲れてはいるのだが、俄然面白くなり、3人の生徒さんと夢中でレッスンしていたら、あっという間に時がたった。
集中の持続力の妙味。集中した稽古、仕事の後は、さわやかな疲労感が体の中に満ちる。この感覚を見失いたくないという思いが、最近しきりにする。贅沢な気分。61年間も生きてきて、ようやくたどり着けた、晩年にての感覚。
だがだが、これからも悩むことの多き、煩悩精神を大切にし、この浮き世の一回こっきりのライブ時間を、巡り逢えたヒトとともに、生きること、夢見ることに関しては貪欲でありたい。
2014-01-22
2014年、1月22日、水曜日、仕事に出かける前のひとときブログ
古いトラクターで寒風の中始動するF氏 |
今、ネギを植えることのほかには、苗を育てるビニールハウスを20列作り、昨日はその中に水を散水するための配管を這わせる作業(地道な作業)を、男3人、女性2人で終日やった。もちろんやったことがないことばかり。指導はF氏である。氏だって数年前ゼロから勉強して、機械を動かすことはもちろん今我々が、教わっていることをわずか2年で実行、実現してきたのである。
そのことを考えると、人間が心からやりたくなったら、すごいことが可能になるということを如実に物語っている。私とN氏は若いF氏を信頼し、軽口をたたきあいながら寒風をものともせず、寒い寒いと口には出すものの、手や体は、間断なく動いてゆく。
わずか数日でいろんなことが、眼に見える形になってゆくので、非常にやりがいがあり、何よりもやったことがないことができるようになってゆくのは、年に関係なく面白い。自分で言うのもなんだが、やはり22年間夢が原で体を動かし続けてきたおかげで、疲れはするものの体が動いてくれることが、やはり一番うれしい。
F氏は31歳、私が富良野塾に参加した年である。うーむ、やはり若いということは、かけがえがなく素晴らしい。農業で生きるという決意が、体全身に感じられる。自分の息子くらいの年齢の上司に教わる。これもまた、実に楽しいのである。
ひとつのプロジェクトを実現してゆくチームとして、申し分なく面白く楽しい。こんなにも仕事に行くのが苦にならないのは、我が人生でも初めてのことではないかと思う。F氏は年長者の意見も聞く耳を持っているので、チームの風通しがとてもいい。N氏も今年から私と同じようにフルタイムで働くようになり、相棒としては申し分がない。
今日もこれから仕事に出かける前、慌ただしき朝時間の中、何かブログに書きたくなる。神は細部に宿る。小さき美しさを、チームで見つけたい。
2014-01-21
岡富貴(いい名前ですね)さんコメントありがとうございました。
光の出演交渉で金梅子先生に初めて会った時の写真 |
滅多には来ない私のブログのコメント、この場でのお返事とさせていただきます。藤原新也さんも、公開でこれはと思われる投稿には、自然に反応されているので、わたしもそれに倣います。
昨日、ブログを書き終え、家の雑事をこなし9時過ぎには家を出て、10時から12時までの山陽カルチャーでのレッスンに向かいました。
早く着いたので、車の中でしばらく本を読み、10分前にクラスに入りました。すでにUさんは来られていて、背筋を伸ばして座っておられました。私はコーラスゆきましたよ。ご招待ありがとうございましたと、とお声かけしました。
わあーっ、来てくださったのですか、それだけで嬉しいですと、少女のようにおっしゃいました。何か行ってよかったと心から思いました。昨年暮れにも遊声塾の、私の生徒さんも参加されて歌う第九の合唱をシンフォニイホールに聴きに行きました。これも妻と。
私にとっては、生徒さんは家族のようなものになりつつあります。娘や息子の発表会に行くような感じなのです。
ともあれ、昨日Uさんと二人で、冬物語の一幕と二幕を二時間かけてゆっくりと集中して読み、今年初めてのレッスンを気持ちよく晴々と終えました。もうあだやおろそかなことには時間を浪費したくはありません。良き按配を、バランスを、律したく思うのです。
月曜日の午前中と、水曜日の夜は、体全部でシェイクスピアに浸る時間です。その貴重な集中時間を共有する生徒さんは、私にとってはかけがえのない存在になりつつあります。
私は、おそらく今後、一人でも家あれどこであれ、心に声を出してシェイクスピアを読みたいという、気力が続く間は、ずっと続けるつもりです。今、叶っているUさんや他の生徒さんとの時間を心から大切にして今年も過ごしてゆきたいとの思いです。
農業と、声を出す、それに妻や母と過ごす時間、そしてわずかであれ、絶対に必要な私一人の時間、またたく間に一日は過ぎてゆきます。自分でもことのほかストレスのない静かな生活が送れる今を大切にしたい私です。
2014-01-20
初めて高齢者の方々のコーラスを聴きに妻とゆきました、そして思いました
ネギを植えるのに疲れ背筋を伸ばす私(N氏撮影) |
この方からでした。まず、やはり文字は体を表すといいますが、文字を見て、あっ、Uさんからだと、嬉しく封を開けました。開けると、コーラスの発表会の御招待券と、身に余る言葉が美しい文字で添えられていました。
そのコーラスの会に、昨日午後妻と二人でルネスホールに出かけました。かなりご年配の、ほとんど私より年上の方々の、いろんなグループが5組、男性が参加されているグループもありましたが、9割は女性の方たちでした。
Uさんも数年前、岡山に縁あってこられてからあるグループに参加されておられ、何故か私にご招待券を、送ってくださったのです。正直、私はあまりコーラスとかがすきではありません。ご招待券を送ってくださらなかったら、まずゆくことはなかったと思います。
でも、いい意味で言行ってよかったと思いました。だからこそブログを書いているのですが、こんなにも高齢の方々が(私よりもずっと、という意味で)一堂に会して歌っておられることに関してちょっと驚き、うまく言葉では書けないのですが、いろんな思いが去来しました。
そのことに関しては、私のつたなき朝ブログでは到底書ききれないので、性急に書く愚は控えたく思います。これだけ高齢の方々が、観客席も含め一堂に会してのそのばの雰囲気は、日本の置かれている、超高齢化社会の現実を私に知らしめました。観客席には若い方がほとんどおられず、その断絶感(寒)にも。
(あらゆる断絶や孤独がこんなにも複雑怪奇に張り巡らされているような時代は、何とも嘘寒く、小生は、薄気味悪くて仕方ありません。教育であれ何であれしがみつく先がお金しかない、無成熟、無希望、無感動社会、不条理犯罪が減るわけがないのは道理です、話がそれました)
やがて私も確実にこの方たちと同じように年を重ねてゆくという、何人といえども向かう道。あらためてそれに向かい合う勇気を、気づいたときからもちづづけてゆく、意識的訓練をしなければならないと、感じ入りました。
Uさんは、おそらくいろんな覚悟を維持しながら歌を歌い、シェイクスピアを読まれながら、今という自分の人生時間を生きておられるのだと思います。そんな矜持を持った生き方をされている方が、若輩の私のレッスンに参加されているという巡り合いに、居住まいを正される気がします。
今日はこれから今年初めてのレッスンがある日なのですが、二人でシェイクスピアの・冬物語・を読む予定です。人間とは究極的には孤独な存在、一人でこの世に生を受け、一人消えてゆく存在、その間出会える人の数は限られて一る。
この年になり、誰かのお役に立てるような時間が持てる我が人生は、言葉にならないありがたさです。人間は夢を紡ぐ生き物、希望や喜びを紡ぎだせないような潤いのない、乾いたかさかさ社会は、一見華やかなれど何とも私には魅力がありません。
人間も同じです。理屈なく希望やささやかな喜びを、他者と共有できる、紡いでゆく勇気をもって生きてゆく方に、私は惹かれます。求めて、歩きゆくものは出会える。
2014-01-19
畑で一人、終日ネギを植えて過ごしました。
今年から私の休日は基本的に、日曜日と月曜日になった。サンナンの農業部門は、A専務がやるべきことさえきちんと自ら考え、実行しさえすれば実に融通をきかしてくれるのである。
子育てを終えたり、社会的に一仕事終えた世代が、やりがいを持ってやれる職場環境に巡り合えるなんてことは、今の日本社会ではことのほかまれではないかという気がする。若いころから自分の夢実現のために、あらゆるフリーター的仕事を40近くまでやってきた私にとっては、まさに夢のような、環境なのである。
夢が原での22年間は、若いころからやりたかったことが実現し、完全燃焼したという思いが私にはあるので、過去にやってきたことにはいい意味で決別し、これまでの経験を踏まえ、あらたな地面世界に向かいたいという、心の声が内なる体に響くのである。
そういうわけで、他の職員はお休みなのだが、昨日は、私ひとり終日畑で過ごした。やったことは手でネギを植えてゆく、何とも地道な仕事、専務が自動ネギ機械を買ってくださったのだが、二人でないとできないし、冬は朝地面が凍っていたりして、冬はやはり手で植えてゆく(畑のコンディションが良ければ午後は可能)しかない。
寒いし、何も無理して一人で植えなくてもいいのだが、サンナンの農業は自分で考えて何かを為すのが原則、春に向けて今一番やらなければならないのは、一本でも多くのネギを植え、きちんと育てるということなので、現時点の自分の体力測定も兼ねて、休息も取りながら終日その単純な仕事をやり続けた。
台詞を暗記するように、繰り返し繰り返し同じ動作の反復、若かりし頃富良野で畑に這いつくばった経験がこんなところで生きてくる。気が遠くなるほどの長さの畑に、一本一本玉ねぎを植えていった、青春の終りの記憶が鮮やかによみがえってきて、今の私を元気づける。
真っ赤な太陽が大地を温め始めると、かちんかちんの地面の水分がまたたくまに溶け、土が緩んでくる。ネギの苗は、真冬の寒さをものともせず、自ら凍りながらも生きている。その生命力には脱帽する。きちんと根が張れるように、ひたすら植える。
腰を時折伸ばし、のらりくらり、ひたすらやり続けること数時間、なんと思った以上に相当にはかどっている。朝日を浴びた植えたばかりのネギが、何とも頼もしく地面の上に整然と列をなしている姿は、植えたもののみが味わえる嬉しさだ。
昨年の10月1日、開墾から始めた、私にとっての最初の愛着のある農地に自分でネギを植えていることが、何やら不思議に感じられる。4月植えたネギが育った姿を想像する、楽しみである。
朝の2時間くらいは、植えていると霜や氷が解け指先が濡れて冷えて、かじかんでくる。だから私は不要の穴のあいた、毛糸や指先が動く薄さの手袋をたくさん妻に用意してもらい、濡れて限界までくると交換し、指先を摩擦し血が通い始めると、また作業に向かうことを繰り返す。
そのうち体もぽかぽかしてくる。こうなるまではいささかの辛抱だが、これから以後はがぜん調子がが出てくる。この年でも人間の体はまさに千変万化、意識が人間の体に及ぼす影響は計り知れない。自分で人体実験を、大げさだがやっているような感覚にも時折なってくる。
体勢的にはかなりしんどいのだが、そこをいかようにも工夫することで、全身が活性化してくるのである。心と体を活性化することの、やはり一番の大事は無理せず、意識を動かすということに尽きるのではないかと、ようやくにして認識できた気がしています。
生きてゆくための楽しみの見つけ方は、気づきさえすれば広大無辺にあるということでしょう。人が動くと書いて、働くという文字です、何やら感じ入ってしまいます。
お昼、温まっている車の中でゆっくりと一人で妻の用意してくれたお弁当を、天を眺め畑を眺めながらおいしく頂くランチタイムは、何とも言えない格別時間です。
まさに、人生いたるところに青山ありです。
子育てを終えたり、社会的に一仕事終えた世代が、やりがいを持ってやれる職場環境に巡り合えるなんてことは、今の日本社会ではことのほかまれではないかという気がする。若いころから自分の夢実現のために、あらゆるフリーター的仕事を40近くまでやってきた私にとっては、まさに夢のような、環境なのである。
夢が原での22年間は、若いころからやりたかったことが実現し、完全燃焼したという思いが私にはあるので、過去にやってきたことにはいい意味で決別し、これまでの経験を踏まえ、あらたな地面世界に向かいたいという、心の声が内なる体に響くのである。
そういうわけで、他の職員はお休みなのだが、昨日は、私ひとり終日畑で過ごした。やったことは手でネギを植えてゆく、何とも地道な仕事、専務が自動ネギ機械を買ってくださったのだが、二人でないとできないし、冬は朝地面が凍っていたりして、冬はやはり手で植えてゆく(畑のコンディションが良ければ午後は可能)しかない。
寒いし、何も無理して一人で植えなくてもいいのだが、サンナンの農業は自分で考えて何かを為すのが原則、春に向けて今一番やらなければならないのは、一本でも多くのネギを植え、きちんと育てるということなので、現時点の自分の体力測定も兼ねて、休息も取りながら終日その単純な仕事をやり続けた。
台詞を暗記するように、繰り返し繰り返し同じ動作の反復、若かりし頃富良野で畑に這いつくばった経験がこんなところで生きてくる。気が遠くなるほどの長さの畑に、一本一本玉ねぎを植えていった、青春の終りの記憶が鮮やかによみがえってきて、今の私を元気づける。
真っ赤な太陽が大地を温め始めると、かちんかちんの地面の水分がまたたくまに溶け、土が緩んでくる。ネギの苗は、真冬の寒さをものともせず、自ら凍りながらも生きている。その生命力には脱帽する。きちんと根が張れるように、ひたすら植える。
腰を時折伸ばし、のらりくらり、ひたすらやり続けること数時間、なんと思った以上に相当にはかどっている。朝日を浴びた植えたばかりのネギが、何とも頼もしく地面の上に整然と列をなしている姿は、植えたもののみが味わえる嬉しさだ。
昨年の10月1日、開墾から始めた、私にとっての最初の愛着のある農地に自分でネギを植えていることが、何やら不思議に感じられる。4月植えたネギが育った姿を想像する、楽しみである。
朝の2時間くらいは、植えていると霜や氷が解け指先が濡れて冷えて、かじかんでくる。だから私は不要の穴のあいた、毛糸や指先が動く薄さの手袋をたくさん妻に用意してもらい、濡れて限界までくると交換し、指先を摩擦し血が通い始めると、また作業に向かうことを繰り返す。
そのうち体もぽかぽかしてくる。こうなるまではいささかの辛抱だが、これから以後はがぜん調子がが出てくる。この年でも人間の体はまさに千変万化、意識が人間の体に及ぼす影響は計り知れない。自分で人体実験を、大げさだがやっているような感覚にも時折なってくる。
体勢的にはかなりしんどいのだが、そこをいかようにも工夫することで、全身が活性化してくるのである。心と体を活性化することの、やはり一番の大事は無理せず、意識を動かすということに尽きるのではないかと、ようやくにして認識できた気がしています。
生きてゆくための楽しみの見つけ方は、気づきさえすれば広大無辺にあるということでしょう。人が動くと書いて、働くという文字です、何やら感じ入ってしまいます。
お昼、温まっている車の中でゆっくりと一人で妻の用意してくれたお弁当を、天を眺め畑を眺めながらおいしく頂くランチタイムは、何とも言えない格別時間です。
まさに、人生いたるところに青山ありです。
2014-01-18
大いなる眠りを迎えるための準備を、藤原新也さんの一文を読んで考える。
予期せぬ不注意で、カメラのシャッターが押せなくなり新しいカメラが手に入るまで、写真なしの文字だけのブログに、しばらくなるかもしれませんのでなるかもしれませんので、ご容赦ください。
個人的な、きわめて個人的なブログではあります。4年以上毎日ではないにせよ書き続けている我がブログを、わずかではあれ、開いてくださる方に対しては、ただただ感謝申し上げます。
私は会員制の、藤原新也さんのWM(定員2000名)の読者だが、お正月早々にご身内の方がお亡くなりになり、死に関してのブログが書かれていて、改めて死ということに関して、普段から意識的に、避けては通れぬこのことに、向かい合わねばならないということを、感じている。
数年前、肺炎になって以来、ほとんど病気には縁がなく、健康に働ける今現在の生活の中で、ややもすると、死を意識することははなはだ、困難である。だが、かすかにかすかに、我々というか、私は死に向かっている。
死ということに関しては、また繰り返し、繰り返し、ブログを書きながらであれ、何であれ考え続けてゆきたいと、あらためて思う。病気になったりすると、いやでも意識するが、健康になると、都合の悪いことは、人間はつとめて考えないようになっているのかもしれない、それもまた本能的なある種の防御と言えるかもしれない。
この間も少しふれたが、必ず己の人生には終りが来る。その時を、可能なら、、いかに迎えるかという、大きな問題を、普段から考え意識する訓練を、やれるものならやりたいと考えつつ日々を送り始めている、最近の私なのである。
農の仕事は、天の下でいやでも自分の体と向かい合わないといけないので、自分の体調管理に関して、きわめて敏感にならざるをない。自己責任(好きな言葉ではない)という言葉を、この数年よく耳にするが、自己管理というか、大人になるという感覚がきわめて薄い時代の趨勢を私は個人的に感じている。
私の両親をはじめ、私が子供のころに感じた、凛と覚悟を持った日本の大人の人のイメージはもうほとんど見かけなくなってきている。死に関しての、実感がこんなにも希薄な時代はおそらく有史以来初めてといっていいのではないかと思う。
ある意味で、死を身近に感じられる生活や、社会の方が健康なのではないかと私は考えている。そういう意味では、本当に今は不健康な時代だと思う。ケータイやあらゆる器機(危機)に取り囲まれ、きれいな身なりをしているが、心がうつろである。地に足がつかずふわふわしている。
実態のない言葉や、汗や肉体の希薄な言葉が、この数十年世の中を跋扈している気がしてならない。健康食品や、お金に振り回される生活の中で、己自身の体が発する感覚と向かいあう術を、私自身忘れがちになる。かけがえのない、自分という自然と向かい合わなければいけないと、私は感じる側に立つ。
そのことは、ゆめゆめ忘れてはならない。死と生は本来分けて考えられることではなく、人間は日々生と死を繰り返し、寿命となり、永久の眠りにつく存在なのではないかというのが現時点の私の認識である。
やがてエネルギーを放出し、大いなる眠りに安らかにかに向かうためには、何をしたらいいのかということを考えると、かすかな光のようなものが感じられてくる気がする。
個人的な、きわめて個人的なブログではあります。4年以上毎日ではないにせよ書き続けている我がブログを、わずかではあれ、開いてくださる方に対しては、ただただ感謝申し上げます。
私は会員制の、藤原新也さんのWM(定員2000名)の読者だが、お正月早々にご身内の方がお亡くなりになり、死に関してのブログが書かれていて、改めて死ということに関して、普段から意識的に、避けては通れぬこのことに、向かい合わねばならないということを、感じている。
数年前、肺炎になって以来、ほとんど病気には縁がなく、健康に働ける今現在の生活の中で、ややもすると、死を意識することははなはだ、困難である。だが、かすかにかすかに、我々というか、私は死に向かっている。
死ということに関しては、また繰り返し、繰り返し、ブログを書きながらであれ、何であれ考え続けてゆきたいと、あらためて思う。病気になったりすると、いやでも意識するが、健康になると、都合の悪いことは、人間はつとめて考えないようになっているのかもしれない、それもまた本能的なある種の防御と言えるかもしれない。
この間も少しふれたが、必ず己の人生には終りが来る。その時を、可能なら、、いかに迎えるかという、大きな問題を、普段から考え意識する訓練を、やれるものならやりたいと考えつつ日々を送り始めている、最近の私なのである。
農の仕事は、天の下でいやでも自分の体と向かい合わないといけないので、自分の体調管理に関して、きわめて敏感にならざるをない。自己責任(好きな言葉ではない)という言葉を、この数年よく耳にするが、自己管理というか、大人になるという感覚がきわめて薄い時代の趨勢を私は個人的に感じている。
私の両親をはじめ、私が子供のころに感じた、凛と覚悟を持った日本の大人の人のイメージはもうほとんど見かけなくなってきている。死に関しての、実感がこんなにも希薄な時代はおそらく有史以来初めてといっていいのではないかと思う。
ある意味で、死を身近に感じられる生活や、社会の方が健康なのではないかと私は考えている。そういう意味では、本当に今は不健康な時代だと思う。ケータイやあらゆる器機(危機)に取り囲まれ、きれいな身なりをしているが、心がうつろである。地に足がつかずふわふわしている。
実態のない言葉や、汗や肉体の希薄な言葉が、この数十年世の中を跋扈している気がしてならない。健康食品や、お金に振り回される生活の中で、己自身の体が発する感覚と向かいあう術を、私自身忘れがちになる。かけがえのない、自分という自然と向かい合わなければいけないと、私は感じる側に立つ。
そのことは、ゆめゆめ忘れてはならない。死と生は本来分けて考えられることではなく、人間は日々生と死を繰り返し、寿命となり、永久の眠りにつく存在なのではないかというのが現時点の私の認識である。
やがてエネルギーを放出し、大いなる眠りに安らかにかに向かうためには、何をしたらいいのかということを考えると、かすかな光のようなものが感じられてくる気がする。
2014-01-15
老春、、再び見果てぬ初夢を紡ぐ朝
故郷の大崩山(おおくえやま)で見た岸壁に咲く名も知れる花 |
1974年から77年にかけて、世はまさに高度成長期で、とにかく働き、節約すればお金がたまるということを初めて発見した数年でした。そのころからいろんな物事への気づきが普通の人より遅く、自分の至らなさに痛い思いをしながら、緩やかに、自分の中に自力で成長しているという自分なりの、自助努力実感のようなものが、うっすらと芽生えてきたことを思いだします。
何よりも、いろんな書物から勝手に影響を受けながらも、自分のことは厳しくとも自分で考え選択し、決断しなければならないという厳しい現実を学びました。あの数年の日々はかなり孤独な日々ではあったと、今思い返すと致します。がしかし、その数年間を、書店でアルバイトできたことは、返す返すも大きかったのだということが、今自覚できます。
本屋という空間の中で、いろんなことが学べた数年間であったと思います。水道橋からは神田が近く、古本屋が密集していて、よく意味もなく散歩しながらのぞき、古書の背表紙を眺めました。また、お茶の水界隈には大学が多く、同世代の若者がたくさんいて、大学生ではない私は、うすらぼんやりと、言葉にしにくい得も言われぬ刺激を受けながら、自分なりに何か自信になることを見つけたいと、あがいていました。
今この年になり、子育てもあらかた終わり、これからは再び老春を生きてゆくに当たり、あらたなあの青春のころとは異なる夢のようなものが、かすかに芽生えてゆく感覚が年が明けて高まってきています。妻を伴い、旅をする。
いつの日か、青春時代に旅したところを再び旅してみたいというような。幸い旅をした記録が残っているので、資金さえ節約調達すれば可能なのです。一番大切なのは健康。よしんば実現しなくとも、その数分の一でも、実現すれば楽しいだろうなあ、という気がします。
いきなり朝から、このようなことを書くとは思いもしませんでした。思いもしないことをつい書いてしまう、朝の予想展開不可能な我がブログ、仕事へ向かう時間がきたらいやでも止めないといけないのですが、これもまた成り行きの楽しみで、きままな旅と似たようなものです。
話は書店に戻り、本屋さんでいろんな本を眺めながら、物思いに耽るひとりのひとときは、小さな幸福感に満たされます。空想の旅もまたたのしからずや、といった風情。時は流れ、再びの節約生活の果てに、見果てぬ時間をかけての夢を紡ぎたいものです。
2014-01-13
畑で自省する力を養ってゆきたいと思う冬の朝
凍った土を管理機で撹拌するF氏 |
仕事に行く前の朝のひとときは、何とも言えず心が穏やか、静かなひとときで、何度も書いていますが、大好きな時間です。満たされた睡眠で身体が全くニュートラルになっているからだと思われます。
夜明け前のひととき、何を書くかも決めず定まらずともかく、書き始めているとなにがしかのことを身体の方が書き始めるそんな五十鈴川だよりに、最近なってきています。私は何を書くかなんてトンと決めてはおりません。
さて、今年というか、今日を、今をなるべくきちんと生きてゆく、よすがとして書きつづる我がブログですが、昨年生活のいろんなことが大きく変化してゆかざるを得なくなった中で、私がかなり考えたことの一つに、反省するということがあります。
一口に、ある程度の年齢になってから、生活のスタイルを変えるとか、何かの出来事で大きく人生のかじを切らねばならなくなったときに、自分の場合のことですが、反省するということの力が必要だということを、昨年はことのほか考える必要なことが起こった年でした。
短い朝ブログでは、内的にとても込み入ったことなので、ふれることはよしますが、そのことは今もって、反省するという言葉を書くと、自分が悪いという意味のようにとらえてしまいがちですが、そういう、いい悪いの単純なことではなく、どちらかといえば、反省ではなく、自省するという感覚です。
その感覚は、年が明けたからと言ってなくなるものではなく、これからもずっと考え続けてゆきたいという、ある種の思い感覚なのです。そういう感覚を自分の中によびさますような事が起こるということを、私は前向きに考えてゆきたいのです。
おそらくそういう日々の暮らしの中に起きてくる、微妙なとげのような感覚は、ある種の気づきを生む訓練のようなことをしていないと、なかなかに日々のお生活の中に埋もれてしまい、自分を正当化してふたをしてしまいがちになる、そんな気がいたします。
そういう意味で、ほとんどを畑で過ごす今の仕事は、自分で言うのも何やら氣はずくしくはあるのですが、何かがやはり巡り合わせてくれたのではないかと思っています。自省の力を養うには申し分ありません。
話は変わり、お正月長女が私たち夫婦にお年玉をくれたのですが、そのお金で私はオレンジのつなぎの畑用の作業着を買いました。朝の畑は、冬ですから霜が降りていたりして、かなり冷えています。自分の体は自分で守らなくてはなりません。
その霜も、朝日が昇るとたちまち、蒸気となって消えてゆきます。動いていると、体も徐々に温まってきます。そうして緩やかに仕事世界に集中してゆきます。この集中感覚が私にとっての農の仕事のだいご味です。
剥がれた、マルチに鍬で土をかけてゆく作業を100メートルやるのはなかなかに骨の折れる仕事なのですが、こんな単純きわまる仕事を我々の祖先は、ついこの間まで長い歴史上やっていたわけです。畑を耕しながら、祖先と対話ができる感覚。
畑仕事は、足や腰、体全体のバランスができていなと長続きしません。やり続けていると、体がいろんな気づきを教えてくれる気がします。何事も続けないことには見つかりません。どんな世界にも喜びを見つけられる感覚を養うこと、そのことを自省しながら養ってゆきたいと、思う朝です。
2014-01-12
次女の成人式の朝に思う
以前も書いたかと思いますが、あの当時の日々に帰りたいかと問われたならば、私の答えはノーです。なんというのでしょう、やはり自分はあの当時の時代の渦のようなものに巻きこまれながら生きていたと思いますし、今の言葉でいえば、フリーターの走りのような、先行きの不確かな、安定路線には程遠い生き方を選択した自分の浅はかさに、いくばくかの悔恨の情を持つからです。
がしかし、その都度の悩んだ末の選択でしたから、ほとんどは後悔していません。帰りきぬ青春、武者ぶるいするほどの無知、未知との遭遇の連続あればこそ、今の私が存在するのですから。
あらゆるヒトや芸術や文化、森羅万象との出会いの集積の上に現在の己の姿があると思いますが、この年になり振り返ると、最も自分に大きな影響を与えたのは、やはり両親の姿なのだということが分かります。
(晩年、両親が過ごしていた世界が、私の目指すこれからの世界なのだという気がしてきています)
背伸びできるときにしか、背伸びはできないのだと思います。内なる不安をいっぱい抱えながらも、若い時だからこそやれた、若い時にしかできないことを、やはりいささか無謀であったとは思うものの、やれたという意味において、私は全く後悔していません。
親になり、娘が成人する。やはり親ばかと言われようとも、なにがしかの個人的な思いはあります。母親とは異なり、父親としていかほどのことが娘にしてやれたのかは覚束ありません。
ただ、なんとか成人までこのような時代に育ってくれたことに関して、私の方からありがとう、おめでとうと言う感じです。生きて、己の命を泳ぐということは、まさにたいへんなことではあります。でも、すべての命がそうやって生きているのですから、その命を可能な限り、自ら輝かしてほしいと、願わずにはいられません。
私自身、二人の娘たちと出会い、どれほど助けられてきたか分かりません。命という不思議は、今もって謎めいて、ときめきます。
キザを承知でいえば、ある時代、生まれおちたところから出発し、人生いかに命を輝かすことが可能かという、一回生の旅とも言えるかもしれません。
娘にはこれから出会う様々な困難を、ヤナギのようにやり過ごし、逃げず歩んでほしいと願わずには居られません。そしてその言葉は、自分自身もこの世の旅を終えるまで、唱えなければならないと、考えています。
2014-01-11
心から嬉しく、感動したお手紙を、2014年の始まりに頂きました。
昨日仕事を終えて家に帰ると、一通の封書が届いていた。文字を見てA氏からだとすぐ分かった。
共働きなので、私がやらねばならないことを済ませませ、よく動いた冷えた体を湯でいたわり、父が生前愛用していた丹前に着かえ、夕食前ゆっくりと読んだ。
お手紙は、素晴らしい内容で私は意味もなく、ただ感動した。その私の思いを、短い朝ブログの時間で伝えることは控えるが、こういうことが起こるからこそ、私は企画を22年間も続けてこられたのだということを、一瞬で理解したのだ。企画し続けてきてよかったと。
氏との交流が始まったのは、2003年日韓パーカッションフェスティバル。今でも思い出すが企画者の私にとってこれ以上のおほめの言葉はないくらいの、素敵な文章を氏は書いてくださったのだ。
このように私の企画を受け止めてくださる観客がおられることに、どれだけ私が勇気や元気を頂いたことだろう。
そして、今また私に対してこのようなお手紙をくださる氏との交流は、私に何と表現してよいか分からぬほどに、人生の淡い、微妙で繊細きわまる喜びを、私に感じさせるのである。
氏のお手紙で、長い長い病を克服され、新しく人生をやり直す強い決意が丹精な文面にあふれていてた。私は何度でも人生をやり直す人に心から惹かれる。
心から嬉しく、こういう人間的な交流をしたいからこそ、私は22年間も企画を続けてきたのかもしれない、とさえ私は思った。過去形になったのは私が企画をやめたということではない。
企画は昨年でもっていったん卒業という思いが、わが心を包んでいるのだ。現時点でのアウトプットはおしまいという感覚。今はただ畑とシェイクスピアを耕すことに時間を費やしたく、腰を据えたいのだ。
命を輝かせてやまない、このような素敵なお手紙に恥じない生き方を私もしてゆきたいし、このようなお手紙のやり取りができる方々と、これからの一回こっきりの人生を歩めたらと改めて思った。
共働きなので、私がやらねばならないことを済ませませ、よく動いた冷えた体を湯でいたわり、父が生前愛用していた丹前に着かえ、夕食前ゆっくりと読んだ。
お手紙は、素晴らしい内容で私は意味もなく、ただ感動した。その私の思いを、短い朝ブログの時間で伝えることは控えるが、こういうことが起こるからこそ、私は企画を22年間も続けてこられたのだということを、一瞬で理解したのだ。企画し続けてきてよかったと。
氏との交流が始まったのは、2003年日韓パーカッションフェスティバル。今でも思い出すが企画者の私にとってこれ以上のおほめの言葉はないくらいの、素敵な文章を氏は書いてくださったのだ。
このように私の企画を受け止めてくださる観客がおられることに、どれだけ私が勇気や元気を頂いたことだろう。
そして、今また私に対してこのようなお手紙をくださる氏との交流は、私に何と表現してよいか分からぬほどに、人生の淡い、微妙で繊細きわまる喜びを、私に感じさせるのである。
氏のお手紙で、長い長い病を克服され、新しく人生をやり直す強い決意が丹精な文面にあふれていてた。私は何度でも人生をやり直す人に心から惹かれる。
心から嬉しく、こういう人間的な交流をしたいからこそ、私は22年間も企画を続けてきたのかもしれない、とさえ私は思った。過去形になったのは私が企画をやめたということではない。
企画は昨年でもっていったん卒業という思いが、わが心を包んでいるのだ。現時点でのアウトプットはおしまいという感覚。今はただ畑とシェイクスピアを耕すことに時間を費やしたく、腰を据えたいのだ。
命を輝かせてやまない、このような素敵なお手紙に恥じない生き方を私もしてゆきたいし、このようなお手紙のやり取りができる方々と、これからの一回こっきりの人生を歩めたらと改めて思った。
2014-01-09
晴耕雨読、ウイリアム・シェイクスピア、冬物語を読む
農の仕事はお天気に左右される、したがって私の場合晴耕雨読という感じになる。昨日は急きょお仕事はお休みとなった。私にとっては恵みの雨となり、遊声塾初日の日であったので、家でゆっくりとシェイクスピアの冬物語を読むことができた。
世はまさに速読多読の時代であるかのような印象が私にはあるのですが、私自身は全くの遅読少読です。もちろんむ本にもよりますが。
冬物語を読むのは30数年ぶりです。シェイクスピアは37本も芝居を書いています。若き日、読んではいましたが、いま読むと全く初めて作品を読むような印象を持ちながら読みました。時折声に出しながら読み進むのですが、声を出しながら読むのがシェイクスピアはやはり一番、限りなく私の場合気持ちよく読めます。
声に出すということは、かなりの意識の集中を必要とします。歌を歌う感覚に近いかと思います。自分の体の感覚で、歌を歌うような感じで読み進んでゆくのですが、なかなかに大変といえば大変、だけれども作品の、何よりも言葉の表現力があまりにも、饒舌豊穣であるがために、その言葉を声に出したくなるのです。すると不思議に元気がみなぎってきます。
人間の言葉と言葉の衝突による劇的な展開は400年前に書かれているとはいえ、まさに現代にも十分通用するほどに、私をして魅了します。人間の苦悩や愚かさをこんなにも分かりやすい言葉で表現している劇作家を私はほかに知りません。昨年も書きましたが、晩年の楽しみの一つに何かが再び私をシェイクスピアの宇宙へと導いてくれたとしか思えません。
私がシェイクスピアに惹かれるのはなぜなのか、これからの人生声に出して読みながら考え続けてゆきたいものだと改めて思います。人間とはなんと愚かな存在であることか、悩み深く、罪多き存在、私自身もそういう存在である、そのことが、身につまされます。
これからの未来時間、畑を耕すような気もちで、シェイクスピの劇的世界を耕すように読み続けられたらもうほかに、私にはやりたいことは限りなく少ないという気さえ致します。ミュージカルにも、オペラにも、ダンスにも、狂言にも、歌舞伎にも、映画にも、シェイクスピアは姿かたちを千変万化しながら、時代をまたがって(越えて)蘇ります。
私の場合、高校2年生の時のフランコゼフレッリのフィルム(ロミオとジュリエット)との出会いが、
シェイクスピアとの出会いですが、またもや再び晩年時間にシェイクスピアと触れることになろうとは思いもしませんでした。生命力みなぎる、熱き言葉の洪水は、声を出すという極めてシンプルな行為で、私を豊かな言葉世界への旅にいざなってくれるのです。
世はまさに速読多読の時代であるかのような印象が私にはあるのですが、私自身は全くの遅読少読です。もちろんむ本にもよりますが。
冬物語を読むのは30数年ぶりです。シェイクスピアは37本も芝居を書いています。若き日、読んではいましたが、いま読むと全く初めて作品を読むような印象を持ちながら読みました。時折声に出しながら読み進むのですが、声を出しながら読むのがシェイクスピアはやはり一番、限りなく私の場合気持ちよく読めます。
声に出すということは、かなりの意識の集中を必要とします。歌を歌う感覚に近いかと思います。自分の体の感覚で、歌を歌うような感じで読み進んでゆくのですが、なかなかに大変といえば大変、だけれども作品の、何よりも言葉の表現力があまりにも、饒舌豊穣であるがために、その言葉を声に出したくなるのです。すると不思議に元気がみなぎってきます。
人間の言葉と言葉の衝突による劇的な展開は400年前に書かれているとはいえ、まさに現代にも十分通用するほどに、私をして魅了します。人間の苦悩や愚かさをこんなにも分かりやすい言葉で表現している劇作家を私はほかに知りません。昨年も書きましたが、晩年の楽しみの一つに何かが再び私をシェイクスピアの宇宙へと導いてくれたとしか思えません。
私がシェイクスピアに惹かれるのはなぜなのか、これからの人生声に出して読みながら考え続けてゆきたいものだと改めて思います。人間とはなんと愚かな存在であることか、悩み深く、罪多き存在、私自身もそういう存在である、そのことが、身につまされます。
これからの未来時間、畑を耕すような気もちで、シェイクスピの劇的世界を耕すように読み続けられたらもうほかに、私にはやりたいことは限りなく少ないという気さえ致します。ミュージカルにも、オペラにも、ダンスにも、狂言にも、歌舞伎にも、映画にも、シェイクスピアは姿かたちを千変万化しながら、時代をまたがって(越えて)蘇ります。
私の場合、高校2年生の時のフランコゼフレッリのフィルム(ロミオとジュリエット)との出会いが、
シェイクスピアとの出会いですが、またもや再び晩年時間にシェイクスピアと触れることになろうとは思いもしませんでした。生命力みなぎる、熱き言葉の洪水は、声を出すという極めてシンプルな行為で、私を豊かな言葉世界への旅にいざなってくれるのです。
2014-01-08
年賀状はこれから書に親しむ時間となりました。手と足で考える年の始まり。
今年のお正月はほとんどテレビを見ませんでした。こんなお正月ははじめてではないかと思います。家族と過ごす以外は、ほとんどの時間を自室で過ごしました。
昨日も仕事から帰って夕食前、ポツリポツリと頂く、年賀状のお返事を墨を磨り、古いかなり使いこんで、筆先がわれる筆で7枚書きました。父が使っていた筆です。
年賀状もリセットして、頂いた方には年があけてから出すように決めました。退職したので、年賀状は減ってゆくだろうと思っていたのですが、かなりの方からお年賀をいただき、はなはだただ恐縮しています。
ただ、一度しかお目にかかったことがなく、それも随分前のことで、お話ししたこともそんなにはなく、お顔の記憶も定かではない方から頂くことがあり、大変失礼とは存じますが、もうここら辺りで、一区切りということにしました。
年賀状書きには2日の日、ほぼ終日を費やしました。100枚以上書きました。宛名はペンで、それ以外は筆で書きました。こんなことは初めてかもしれません。全部黒なので、目出度いお正月には不向きかもしれませんが、父がいつも手で書いていた姿がまぶたに焼き付いていまして、歳と共に気持ちが乗り移ってくるのです。
気持ちを伝えるのは、なかなかに難しいことで、これからの人生時間を考えると、一人一人の方のお顔を思い浮かべながら、文字を書くというのは、なかなかに趣きのあるお正月時間にこれからはますますなってゆくように書きながら思ったことです。
落ち着いて文字を書くということを、ずっとやりたいと思っていました。書に親しむ時間が、私にはいいのです。ブログはパソコンで書き、はなはだ矛盾していますが、私の中では、中庸のバランスが肝要なのです。やがて、手で書くことも含めあらゆることが、機械にとって代わられるかもしれませんが、自分の身体と付き合ってゆくことが人生、手間暇がかかろうとも、肝要ではないかとの側に私はたつものです。
人間は機械ではなく、情動の器なのです、(文字には、気が映ります)。あと先のことは考えず、できるだけ頭ではなく全身で考えられるような器で在りたいと、そんなふうに文字を書きながら思うのです。
2014-01-07
仕事開始、苗床作りから始まりました。
4列完成 |
日々の日録的我が思いつきブログ、どうしても農の仕事のことを書き綴ってゆくことが多くなる気がします。私の暮らしが変化してゆくのですから、どうしてもそうなってゆきます。ご容赦あれ。
さて、いよいよ私の中で本格的に農の仕事が年も改まり始まりました。サンナンでは開墾から始めた畑のとなりの畑で、苗床をつくる仕事からスタートしました。いつものトリオ、F氏とN氏と私の3人で、午前中4列の苗床ができました。
先生はF氏、わたしとN氏は初めてやったのですが、徐々に慣れてきてお天気にも恵まれ楽しく仕事がはかどりました。この3人でのチームワークは申し分ありません。F氏は息子くらいの年齢なのですが、歳の差なんて全く感じません。
私もN氏も彼とは冗談の連発で、何でも相談しながら、おそわりながら、事を進めています。若いとは言っても農のことに関してはすべて先輩なので、謙虚におそわっています。細かい性格なのですが楽天的で、何より勉強熱心、上司として認めています。
あらためて、この日本社会にどれほどの会社が、大中小あるのかは知りませんが、私は世の中に出て、こんなにも気持ちよく働いた、働けた、記憶がありません。若い時は荒野を目指し、子育てを終えた新老人、入口の私は(五木寛之さんの言葉)は農野を目指すのです。
挑戦というと、何やらいかめしい文字で、私はあまり好きにはなれません。ヒトは生きてゆくために、何がしかの仕事をして、生活の糧を得てゆくことは自明の理ですが、働くということに関して、内なる心が活性化してゆくような職場環境を整えてゆくということは、時代の必然のような直感がいたします。
超高齢化日本社会を新老人たちが、いきいきと生きてゆくためには、農の仕事はたまらなく魅力的に私には思えてきています。これまでは芸術や文化的なことにすがりついて生きてきましたが、(それをもっと深く考えるためにも)命の根本である農の仕事は、あらゆる見直しを私に迫ります。
本を読む時間を減らし、私は身体を休めベストコンディションで畑に向かうようにしています。
始まり |
2014-01-06
2014年、本年も五十鈴川だより、どうぞよろしくお願いします。
牛窓のオリーブ園で家族で初日の出を迎えました |
2014年最初の五十鈴川だより、明けましておめでとうございます。
今日から仕事始め、昨年の今頃を思いだせないくらい、わずか一年後このような心境でブログを書くことになろうとは思いもしませんでした。だから私は本当に先のことはあまり考えなくなりました。今日一日を悔いのないように生きる。
ブログは何よりも自分自身の、心身管理を、第一義に試行しながら、今年も風の向くまま、気の向くまま、書きつづってゆく所存です。この私自身のブログ、五十鈴川だよりを開いてくださる方々にとって、日々の暮らしが、なにはなくとも、つつがなく過ごせる一年であるように祈ります。
昨年は、人生の再出発にあたり、様々な出来事が個人的に起こり、試練修業の年であったと今考えると思います。しかし、そのひとつひとつを、正面から受け止め、なんとか泳ぎ切った一年であったと、振り返り思います。
さて、今年はその延長線上にあり、どんな一年になるのかはすべて、当たり前のことですが、自分の心かけ次第ということになります。そういう意味において朝、一日の始まりにブログを書きつづる、ある意味での癖のようなものを、晩年の入り口で見つけられたのは、幸運であったと思います。(それと何よりも、農の仕事に巡り合えたこと)
変換ミスが多く、あたふたと書きつづった、瞬間的なその時の思いが、残っているのを後で、たまに読み返すと、恥ずかしきこと多き五十鈴川だよりですが、いたし方ありません、ない袖は振れないのですから。
さて昨日、まる8日間帰省していた娘と婚約者のレイ君と母がそれぞれの居場所に戻って、我が家は一気に寂しくなり、お正月が終わりました。おかげさまで平凡で非凡な、幸せなお正月を過ごすことができました。
ほとんどどこにも出かけず、(昨日は出かけましたが)家族と共に過ごしました。こんなお正月は私にとっては岡山にきて初めてでした。今年、いかに生きて過ごすかを静かに考えるまたとないお正月となりました。
娘が秋に、ドイツはドレスデンで挙式をします。そのことがやはり今年一番の私にとっての大きな出来事です。今はただ農の仕事と、シェイクスピアを声に出しながら、静かにその日が来るのを迎えたい思いです。
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