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2013-07-03

高峰秀子さんが生涯愛された場所を散策することが叶いました


そっとたたずむ私、K氏が写真を撮ってくれた
 

3泊4日の上京は、毎日異なる人と久しぶりに会い、いつもとは違う時間をいつもとは異なる場所で過ごした。

 

確実に時間は流れ、世相も人相も瞬く間にその表層を変える。人心もまたその中で否応なく変わってゆかざるを得ない。だが幸せなことに、そんな時代の趨勢の中変わらぬ初老を迎えつつある友人たちと、ほぼ毎日旧交を温めることができた。

 

木曜日は、着いてすぐオロというチベットのフィルムの撮影を担当したT氏と先ず会った。そこでおもわぬことを知らされた。オロのフィルムの監督の岩佐寿弥監督が亡くなられたということを。

 
私はK氏とのお付き合いの中で、オロというフィルムの岡山での上映会を考えていたので、今回時間が許せば、監督に御挨拶をしようかと考えていた。それが叶わぬことになってしまったと同時に、監督の結果的には遺作になってしまったオロを、どんなにささやかではあれ岡山で上映しようとの思いを胸にした。

 
その後、椎名さんには会えなかったけれど、本当に久しぶりに退職した御挨拶に、椎名誠事務所を訪ねた。O女子とお会いし、くれぐれも椎名さんによろしくと伝え、京王線の笹塚から歩いて15分のところに在る事務所を後にした。

 
そこから、四谷に向かった。我が交友関係で唯一の弁護士、めったに会えない多忙なS氏が私とのために時間を作ってくれたからである。氏との約束の時間には早かったので、私が40年前入り浸っていた、四谷のイーグルというジャズ喫茶を探したら、何といまだあって、そこでジャズをしょう一時間聴いた。様々な若き日の思いが去来した。

 
結果S氏も仕事を終えそこで合流、しばし二人でおもわぬジャズタイムを過した後、気持ちよく晴れた、陽の長い夕刻、私たちは四谷から新宿まで、久しぶりの再会を喜び歩いた。行った先は椎名さんが数十年ゆきつけの馳林房という居酒屋。たまたまこの店をS氏も知っていて、二人だけで10時半までS氏は多忙なのに岡山からやってきた私を慰労して下さった。友との語らい、(友とは何か、考え続けたい)御酒が肺腑にしみた。

 
その夜は一人品川泊まり。翌金曜日はギリギリまでゆっくりとホテルで休み、そこから親友のK氏といつも泊まっている三田の宿に移動。K氏と田町駅で落ち合い、めったにゆくことはない、とあるK大学の学食でつつましい昼食。

 
この日はK氏以外に会う予定はなかったので、いつかゆきたいと、この数年思っていた、いまは亡き高峰秀子さんが住んでいた、麻布の永坂界隈を、ゆきあたりばったり、二人で散策がてら訪ねた。随分遠回りしたが、高峰秀子さんが50年以上気に入って住んでおられた永坂の地に立つことが叶った。そしてたまたま、その何とも言えない静かな白い家(高峰さんは白い色が大好きだったみたいだ)にも巡り合うことができた。

 
何故だかわからない、先のブログでも書いたが、これからの人生の限りないお手本の一人として、万分の一でも学べたらと、願わずにはいられない御二人が、高峰秀子・松山善三ご夫妻である。仕事を辞してから、本当に落ち着いて一行一行噛みしめるように読みふける自分がいる。そのあまりの端正というしかない凛とした生き方には、畏怖と同時に、畏敬の念を押さえることができない。

 
ようやく70歳を過ぎ、静謐に、おだやかな時を過しながら、人生の後始末をし、幕を閉じられた波乱万丈というしかない彼女の人生の、見事というしかない生き方は、私ごときの拙い言葉では、到底伝えることができない。是非養女になられた斎藤(松山)明美さんの本を読んでみてほしい、関心のある方は。

 
何もしない、何も持たない、ということ、空の無の境地におそらく至ったであろう、晩年の奥底までの歩みは、本人にしか分からないにもせよ。61歳の私がなぜこうまでに、惹かれるのかは、自分でもよくは分からない。これからも自問自答するしかない。

 
でも、わけもなく惹かれている自分がまぎれもなくいるのは、確かなのである。ともあれ身近なブログで書くことではないし、書けない。私自身が今後を生きる中でおそらく、繰り返し、弱音を吐きたくなった時、彼女の遺した言葉に、触れたくなることは間違いない。

 
5歳から働きながら、人間を見つめ続けた彼女の眼力の前では、私などは居住まいを正すしかない、全てお見通しである。高峰さんが見ていると想像すると、きちんと雑巾がけをする手にも、隅々まで目がゆくのである。

 
長いブログになったので、土曜日のことはまた書くことにします。

 

 

 

 

 

 

 

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