5月31日のブログに私は椎名誠さんのことについて書いている。起きて朝すぐに、身体があまり起きていないときに書いた記憶がある。いわゆるニュートラルな状態で、思いつくままに書いたものである。
私は9割のブログ、起きてそんなに時間が経っていない、身体が非常に謙虚な時にブログを書いている、ように思う。何故なのか考えると、やはり眠ることによって、身体がリフレッシュされ、オーバーに言えば生き返ったかのような感じが、朝の時間のしばらくには、あるように思えるからだ。
昨日の続きに今日があることは、自明の理なのだが、明らかに昨日と今日は違う一日なのだ。そしてその一日は、もう2度とやってこない、自分の人生で最も新しい時間というわけだ。可能なら、その一日を新鮮に、もう歳だなどと思わず、生きる方法のようなことを探してみたいものだという、いい意味でのじたばた感が、恥ずかしくはあれ、いまだ止まない自分がいる。(止んだら素直に止めます)
高峰秀子さんの本で知ったが(斎藤明美著・高峰秀子の捨てられない荷物)谷崎潤一郎が言っているそうである、「われという人の心はただひとり、我よりほかに知る人はなし」と。まさに然りと思う。がしかし、私は憧れの高峰さんとはほんの少し、考え方に相違があって、今しばらくヒトとヒトの間、人間(自分にとっての)の関係性ということを考えてみたいという、いわば煩悩のような、熾きがいまだ止まないのだ。
だからDVD上映トークをやりたいのではないか、というようなことを昨夜考えているうちに眠りに落ち、起きてつらつら書きとめておこうと、書いているわけだ。DVD上映会で何を上映するのかも知らせていなかった(その時点では何をやるか決めあぐねていた)が、上映するのは、フランコゼフィレリ監督のロミオとジュリエットに一週間前にきめ、17歳で観て以来、落ち着いて45年ぶりくらいに一人静かに見た。
観て良かった。やはりこの作品に出会わなかったら、今の自分はないということが、はっきりと確認できた。その細い糸が、シェイクスピア遊声塾にも繋がっているということも。
半世紀近く前の、それもちいさな画面のDVDでしか観ていないのに、すぐれた作品は古びない。400年も前のイタリアはヴェローナの若い男女の悲劇を、45年前の九州の田舎の映画館で、異国の高校生が見ても感銘を受ける、芸術的感情のエッセンスとは一体何なのか。生と死、血と暴力と愛。
一人の田舎者の少年の人生を、ある意味で狂わせてしまったほどに、出会うタイミングがあまりにも、主人公たちと近かったというしかない。
それにしても映画的に、膨大な台詞を大胆にカットして、異国の田舎の高校生をびっくりさせた、ゼフィレリの気品と中世の香りにあふれた演出力、美的造形力は、芸術性と娯楽性を兼ね備えていて、今も61歳の私を驚かす。そして、すぐれた演出家の手にかかると、シェイクスピアが、時代を超えて忽然と生き返ることも。
このフィルムは長いが、今見ても一気に引き込まれる。したがって、今日の私のトークは30分くらいしかしゃべれない、ないそでは振れないが、先のことはあまり考えず、とりあえず第一回、始めようとおもう。
「ロミオとジュリエット」初めて見たのは 中学3年の時です。
返信削除今はもうないのですが「土電ホール」という高知県で一番大きな映画館。自分の年齢から計算すると リバイバル上映でしょうね。ビデオとかDVDとか 想像もできない時代です。
皆が 同じ時間軸で 作品を「共有」していました。
「鈴の踊り」が流行し、「あなたと 私の 新しい 二人の 時がくる~♪」と皆で歌いました。
ありがとうございました。次回を楽しみにしております。