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N氏の和紙の作品
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連続4日ブログを書くのは極めて珍しい。おもいのたけをささやかに書きつづれるというのは、ありがたき幸せというほかはない。今はもう私の記憶の中にしかないが、私が生まれた家には本というものがほとんどなかった。
敗戦後、両親がロシア人にすべてを没収され、北朝鮮から当時3歳の姉と、1歳になっていなかった兄の4人で引き揚げてきて、再び日本で教師になり、すべて借金して建てた家。母は祖父母の面倒と5人の子育てで忙しく、父の給料では本なんか買う余裕もなかったのだとおもうし、本なんか読む時間もなかったのだ。大陸での牧歌的生活から、全くあらゆることがひっくり返った中からの一からのやり直し。
私は保育園にも幼稚園にも行っていない。生まれてすぐ父の仕事で3歳までを高千穂というところで過ごし、4歳から小学校に入学するまでは生家の周りでほとんどの時間を過ごしていた。両親は生きるのに忙しく、私は文字というものを全く知らずに一年生になった。
いきなり入学した小学校で、同じ年頃の男女がわんさかいたのには驚いたが,もっと驚いたのはかなりの子供たちが文字なるものを読み書きできたことだ。私のコンプレックスというのか、小さきトラウマは、今考えるとあそこに起因しているのではないかという気がしている。
父は町中から離れた、田畑の中の限りなく安い土地に家を立てたので、私の幼少期には、周りには全く他の家はなかった。考えてみると6歳まで、私は全くの自然の中で育ち、家族や親せき、モノ売りやわずかに家にやってくる人たち以外の人は知らない、極めて限られた場所が世界のすべてという環境の中で過ごしていた。
だから私は小学校6年生まで教科書以外の本を読んだ記憶はない。ただ田舎町に貸本屋があり、漫画は読んでいた。6年生で海沿いの田舎町から、日の影の炭鉱町に転校したが、この6年生の一年間だけ過ごした炭鉱町で私が初めて経験した出来事の数々が、今考えると決定的にその後の人生を左右していることが、今わかる。
井の中の蛙を、初めて体験した一年間ということが言えるとおもう。そのころからようやっと、頭の中にいろんな光が入り始めたような気がするが、短い朝のブログでは今はとても書けない。だが、この年になっておもうのは文字という観念が入り込む前に、ただひたすら自然の中に何の制約もなくおっぽり出されていて、家のまわりの自然の中で、夢中で飽きもせず遊べた幼少期こそが、私にとっての黄金期であり、そこに私の原感覚が宿っているというまぎれもない事実に最近気づかされるのである。
考えてみると、この半世紀の社会とは限りなく自然から切り離された、自然を不自然に人工加工する、養老先生風にいえば、限りなく人間の都合のいいように作り変えてきた脳化社会を、いまだ驀進中という感じの私は認識だ。行き着くところまでゆくのではという苦い認識。
物心ついてから、私もなんとか脳化社会を生き抜いてきたわけなのであるが、もう今後は限りなくその脳化社会とはおさらばして、あの原感覚の世界へと回帰してゆきたいというのが、ささやかな私の希望である。
熱い夏、水田の用水路でパンツ一枚になり無心で遊んでいた、原風景。農業(機械、農薬はなく水は限りなく安全で美しかった)ではなくお百姓さん、漁師や、職人さん(鍛冶屋・鋳掛屋・畳や・豆腐屋etc)が、暮らしのあちこちにいて、人間が人間らしい顔をしていたあの頃、面白い大人がわんさかいた。
勉強する、学ぶということ、仕事、はたまた生きるということは何か。何のために生まれてきたのか。チベットの少年オロ・祝(ほうり)の島・この2本のフィルムを61歳の今、何かの縁で企画する自分がいる。これは逆説的にいえば、無知なるがゆえに(私の企画はほとんどがそうである)企画出来るのだという、苦い自覚が私にはある。
人間が自ら作り出した機械や機器に取り囲まれながらも、それに魂を売り渡さず、生きてゆくための大切なこと、感謝の一念。お金では買えない世界を、大事に守っている人びとがこの惑星にいまだ住んでいること。企画者のはしくれとして、こちら側からやがてはあちら側へゆく前に、ささやかに企画したい。やれるうちに。
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