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先日訪ねたN氏の和紙の造形オブジェ・畳くらいの大きさ厚さは1センチ以上はある |
文章をパソコンで書きながらも、ITライフは限りなく少なく過そうという感じで私は過している。それはやはり年齢的なことがおおきい。私に残されたこれからの人生の時間を考えると、自分自身の内面を考える、見つめてみたいという欲求が強くなり、わけても身体が動くうちに、書いたり動いたり、声を出したりできる、自分という摩訶不思議な器との時間を大切にしたいという思いが、強くなってきている。
もう私くらいの年齢になると、新しい情報なんかにはそんなにときめかない、これまでに巡り合うことのできた、ヒトや書物ほか私の宝物との時間を深めてゆきたいとの思いにとらわれる。再読、再再読することで深く染み入ってくるような感覚が育ってきているように思えるのだ。歳を重ねて走れなくなった分、ゆっくり細部に思いが及ぶような案配。
パソコンでは調べ物をしたり、ブログを書いたりするくらいで、それ以外ではほとんど触ることはない。紙一重の感覚であり、私自身行ったり来たりを普段はしながら(バーチャルとリアルを)暮らしているわけだが、リアルな世界の方がやはり落ち着くのは、10歳までテレビが我が家にやってくる前に、私という器の原感覚ほとんどが出来上がったということに起因しているとおもう。(そのことはまた書きたい)
人間というのは、自分という器のくびきからは、逃れられない、ある種の限界を生きざるを得ない(とくに私のような凡人は)生きものだとおもうが、だからこそ何かにすがって、日々の営みの平衡感覚を保とうとするのだとおもう。
もうあと3カ月もすると、ブログを書き始めて4年になるのだが、本当にあっという間の時の流れの感覚、(だが以前にはない自己受容が始まっている)おそらくこれからその感覚は加速度的に増えてゆくような気がするが、そのことを受け入れながら、歩みたいという思いだ。はなはだ自己満足ではあれ、先のことはともかく、書き続けたから今を迎えることができているという安堵感が、ささやかに私を包む。
オーバーに言えば、書きつづけなかったら変に煮詰まった、思考整理のはなはだ不得手な中年おじさんになっていたのではないかとい言う気がするのだ。どんな拙文であれ、自分なりのその一日を書くことでいわば体調管理をしてきたのだという認識、ブログは公の中での自分との対話なのだ。
さて、今そんな私の暮らしの中で、今私はついこの間まではおもいもしなかった座学を平日受けている。今週も昨日金曜日まで、毎日6時間講習を受けた。あとひと月続くが、完走したらブログに書けたらとおもう。
何故、そんなことを学び始めたのかについても書けるものなら書いておきたいとの思いがあるが、一言でいえば自然の流れの現時点でのひとつの帰結なのだとおもう。
今朝はここまでにとどめ置くが、退職して早4ヶ月、ゆっくりと歩く、ゆっくりと声を出す、ゆっくりとDVDを見る、ゆっくりとヒトと話す、ゆっくりと本を読む、ゆっくりと旅をする、あらゆるゆっくりとの中に、若いころには持ち得なかった充実がほのかに立ちあがってきたのである。
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