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2013-07-15

無題・パソコンの調子悪く・写真アップできずごめんなさい。


退職後丸3カ月が過ぎ、新しい日々が、これまでのように、あたふたとではなく落ち着いて、意識的に過ごせる、つまりは限りなく制約の少ない、自主的な人生を歩み始められている幸福を噛みしめている。今こそすべてである。

 

75日から始まったのだが、今私はこれから8月末までの平日、これまで受けてみようとは考えもしなかった講座を受けている。まだ始まったばかりで続くかどうかも分からないので(いろいろと個人的なことを抱えているので)その講座を完了したら、このブログでお伝えしたいとおもう。(それまでブログを書く回数が減ります)

 

物心ついたころから、生と死ということが頭から離れず、またわずか61年の人生で、ヒトや、世の中は激変するということを、私なりに身につまされながら歩んで生きてきた。なんとか身過ぎ世過ぎこの年まで生きてきたが、この浮世というものの不確かさ、明日はどんなふうになるやもしれぬという、綱渡り的危うい時代状況は、なんともはやいかんともしがたく、ある種の言葉にできない不安感とともに、私の中にこの数十年居座っている。

 

私自身が明らかにこの21年で、平和ボケしているという認識がかろうじてある。私自身のガラパゴス化をなんとかしたいがために、企画を続けているし、人生途上トークを始めたのもそこに全ては起因しているということが、この間やってみて良くわかった。途上トークで私の生きた61年間という時代を振り返り、そこからまた新な一歩をとおもうのだ。

 

朝からこんなことを書くと何やら深刻だが、今日もまた世界をあまねく照らす陽は昇ってきた。なるようにしかならない、という自明の理の前で、私は今しばらくの間、あたふたと生きることになるような気はしてはいるが、やがてはそんなことさえできなくなるのだから、書いたり動いたり出来るうちに、悔いのないように、生きなくてはとおもわずにはいられない。

 

さて今日から、一泊二日で、徳島の山の中で(連れて行っていただくので、どこかよく場所を知らない)和紙を作られている方を訪ねる。これは念願というと大げさだがもう10年近く前、倉敷でのこの方の個展を見たことがあり、あまりにも素晴らしかったので、チャンスがあったらどのようなところで和紙を漉いているのかを、この眼で見たかったのである。

 

それが今日叶うのだ。嬉しい。人知れず山奥で、和紙をすいている方に私は限りなく惹かれる。私は和紙の素晴らしさにひかれる。和紙に筆で字を書きたい、今ようやくその季節が私の人生に訪れたのだ。だが、いい和紙は今の時代限りなく値が高い、だが書けるうちに可能な範囲で書きたいのだ。

 

やがて、企画も辞め、ブログも辞め、いわゆる老人になった時、父には囲碁があったが、

私にはない。だが父の遺した硯があるので、好きな言葉、好きな文字、歌や詩などを、誰に倣ったのでもないのだが、我流自在に書きたいという、ささやかな思念(おもい)があるのだ。

 

初めて経験するこの年になっても、生まれいずる悩み(ヒトにとって最も大切なことではないか)からヒトは解放されない。父も(おそらくこの世の大半の方が)おそらくはそうであったとは思うが、人間はいくつになっても、悩み続ける生きもの(だからこそ美や芸術が生まれる)なのであるからこそ、人間らしく生きるとは、という、哲学的絶対矛盾からは逃れられそうもない。

 

ならば、ハムレットのように敢然と、何事かに向かうしかない。

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