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2013-07-15

徳島の山奥の上那賀町・拝宮・轟という地名のところに住む、手漉き和紙造形作家を訪ねました


しばらく文字だけのブログになるかもしれませんがご容赦ください。書いていることのあれやこれやを想像して読んでくださると、小生かたじけなく嬉しくおもいます。

 

さて、徳島の阿南市から、60キロの距離にある山の奥地、(那賀川の上流)標高600メートル、上那賀(かみなか)の轟という在所で、紙すき(和紙の造形作家)をされているN氏宅に一晩御邪魔し、昨日の夕方帰ってきました。

 

私の文章力ではとても伝えきれるものではないくらい、都市現代人の私には、まさにありきたりな表現ですが、N氏は生まれた場所の秘境の地で、(まさに孤高を保ちというほかはない)御夫婦と息子さんの3人で暮らしておられました。

 

着いたのが、夕方の5時過ぎ、昨日御昼前N私宅を辞するまでわずかな滞在ではありましたが、この間の上京とはまったく異なる充実感に浸ることになりました、現場に足を運び自分の身体で見ないと分からない感覚です。

 

一言、私にとっては、初めて行った土地なのになぜか懐かしい、我が故郷の、ご先祖も、その昔このようなところで自然に寄り添い、ひっそりと静かに暮らしていたに違いないと、おもえるような四国山地の、今風にいえば、限界集落(好きな言葉ではない)の地で、N氏は和紙の原料の楮の樹の皮を、かっては捨てていた部分まで全部使い、漉いておられました。

 

大から小(大きいのは畳一畳位の分厚い造形アートもある)、様々な色、模様、形、独特の夥しい工房の二階の作品群に圧倒された。そのうち、何枚か写真でアップできればと思います。

 

N氏は小さな森の巨人という表現がぴったりの方でありました。刃物を研ぐ姿や、鹿の肉を自ら研いだ包丁で切りわける姿は、私にはとてもかっこよく、男のはしくれとしては、羨望の念を持ちました。森の住人という形容が私には一番ぴったりという気がしました。その地に生まれ、その森の中でいまだに少年のように物づくりをして遊んでいる稀人。

 

私はあらゆる意味でコンプレックス(最近はいい意味で捉えなおすことにしています)が強いのですが、生業ではなく普通の男として鹿の肉を解体できるなんて、現代では限りなく少数者でしょう。夜、自ら囲炉裏に炭をおこし、鹿肉の火の通りがいいように、切り込みをゆっくりと入れてくれました。

初めて天然の鹿肉を食べましたが、簡単には火が通らず身が締まっていて、噛むほどに肉のうまみが、口の中に広がり単純な言葉では表現できない、鹿の生命を頂いているという、感覚を持ちました。

 

なんと、氏の家のすぐそばまで鹿がやってくるのです。私も小鹿を見ましたが、楮の樹の葉や、作物を食べてしまう増えすぎた天敵の鹿が、畑の網などにかかってしまうと、氏やその地に住む方たちは昔から、貴重な肉として食料にしてきたわけです。その伝統がいまだ受け継がれ、マムシなんかもすぐにさばける、生き抜く知恵が詰まった身体と、必須な腕を皆持っているわけです。

 

いまだ、このような暮らしの中で、和紙すきを持続、生活しておられるということの大変さ、先祖代々の在所の歴史を、今に受け継ぎ、和紙の持つしなやかな強さに、生命力と可能性を吹き込み、便利さと共にひ弱になった現代人の暮らしをも逆照射する氏独自の仕事は、私に深い問いを投げかける。

 

相当前に、一度個展でたまたま眼にして、買い求めた小さな作品が玄関に今も飾られているが、その作家に会うことが出来、杯を汲みかえし(御酒を控えられているとのことでしたが、その夜は少し飲まれました)わずかではあったが御話もできた。

 

氏の漉いた便箋や名刺用の、紙をほんの少し求めてきたの。これからはインターネットの暮らしの中に、ある意味での対極的な時間、墨を磨り文字を書く暮らしをしたいと私は願っている。

 

家族3人で漉いた、和紙に文字を書くとき、おそらく私はきっと、自分の両親や祖父母他、私の御先祖様たちと交信するかのような錯覚に陥るのではないか、という気がする、紙の霊力が私に何か力をくれるような。

 
最後に奥さまの、みちこさん(文字は正確には知らないので、平仮名にします)手作りのお鮨と野菜料理、シンプルでおいしかった。すべて、御酒に合いました。大変お世話になりました。この場を借りてお礼を伝えたく思います。ありがとうございました

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